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【東京世界柔道選手権2019特集】【eJudo’s EYE】90kg級の生物相は「勝負師タイプ」優勢、70kg級新井千鶴は到達点の高さ試合に反映出来ず・第5日評

Mukai Shoichiro
向翔一郎は惜しくも決勝で敗退

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撮影:乾晋也、辺見真也

文責:古田英毅

あと一歩を詰められなかった向、勝者の条件に適っていたファンテンド

向翔一郎は惜しかった。決勝までは自制を利かせ、我慢すべきところを抑え、行くべきところでしっかり仕掛ける緩急自在の戦いぶり。悪癖である「自爆」の気配は微塵も感じさせず、しかもトーナメントは向が得意とする荒れた展開。連覇を狙うニコロス・シェラザディシヴィリ(スペイン)が3回戦で早くも消え、向自身の山も面倒なベカ・グヴィニアシヴィリ(ジョージア)が直接対決を待たずに先に落ち、そして迎えた勝負どころのイワン=フェリペ・シルバ=モラレス(キューバ)との準々決勝では極めて冷静なフェイントの小内刈で一本勝ち。残ったメンバーに向が苦手とするタイプはもはやおらず、これはどうやら優勝する流れだなと思ったのは筆者だけではないだろう。

しかし決勝は右組みの左一本背負投ファイター、ノエル・ファンテンド(オランダ)に苦杯。背負投に小内刈と惜しい技を連発して大枠展開を握りながら、左の担ぎ技フェイントの片襟左大外落、そしてさらに流し込まれた右小外刈という三段攻撃に躓いて残り25秒で「技有」失陥。ここからの寝勝負が切れたときに残された時間は僅か15秒しかなく、そのままタイムアップを迎えることとなった。

この失点に関しては右釣り手(相手の左)を持つところからしか技がないファンテンドに対して一瞬極めて近い間合いで一方的にこれを与えてしまった組み手のミス、その直前には釣り手一本同士で攻防した末に得意の左一本背負投に入らせて手ごたえを与えてしまった伏線付与、と局面での詰めの甘さはあった。ここをきちんと抑えていれば少なくともGS延長戦でひと勝負掛ける機会を得られたという勿体なさはある。また2分14秒から展開、背負投で腰に引っ掛けて投げかけた場面に始まり左小内刈で腹ばいにさせたところで終了した3分4秒までのシークエンスでせめて2つ目の「指導」が取れていれば、あるいは「技有」失陥がせめてあと少し早い時間帯であったら(向は結果として打撃力としては最大の「抱き勝負」という勝負モードを出す時間がないまま大会自体を終えさせられたということになった)、と多くの「たられば」が脳裏に浮かぶ試合ではあった。ただし向に致命的な構造欠陥があったとまでは感じられず、これまでの「評」からすればダブルスタンダードと言われてしまうかもしれないが、どちらかというと向の側に因を求めるのが難しい内容と感じてしまう。そしてこの「自身の側に直接的な原因求めるのが難しい」というのは意外と本質なのではないか。向の詰めの甘さが決定的なシナリオ分岐の引き金を引いた、そのこと自体は認めた上で、なおファンテンドが良かった。

VAN T END, Noel
ファンテンドはこれまで見せたことのない左大外落の大博打
VAN T END, Noel
さらに右小外刈に繋いで向から「技有」を奪った

このファンテンドが良かったということに関してまず局所的に言えば。アクセルを踏み込むなら相手がついてこれないほど目一杯、「加速」ではなく「急加速」したことがひとつ見事だった。まずは相手に読まれるであろう得意の左前技を晒して後ろ技を使ったこと、そしてここで一の矢に大外刈を使ったこと。筆者がファンテンドをそれと意識してウォッチし始めたのはおそらく2013年ごろと思うのだが、以降この選手の大外刈などまったくみたことがないし、どころか「外側の技」自体を繰り出す場面もほとんど覚えがない。さらにファンテンドはその左大外落から足を踏みかえてもう1つ外側の技、右小外刈を積み重ねたわけである。最終戦の、それも終盤というギリギリの場面でこの3段重ねのフェイクという極端なアクセルの踏み込み。向はおそらくたとえファンテンドの右釣り手に襟を与えても「内側の技」(一本背負投と小内刈)には備えがあったと思うのだが、まさしく意識の「外」から襲って来た外側の技には対処が一瞬遅れてしまったのではないか。それでも二段目(前技フェイントが一段目)の大外落には対応したが、三段ロケットの小外刈にはついに躓いてしまった。アクセルを踏むなら相手がついてこれないほど目一杯、戦力の逐次投入(タブーである)ではなく適切な場面を見極めての大量投下。作戦の理に叶っている。また前述の通り、このとっておきの刃を最終戦のそれも最終盤、向が力を発揮しようのない残り30秒を過ぎてから入れたという試合運びの上手さも特筆ものだ。

そしてこの決勝の一場面よりも、柔道自体の練り上げという点にフォーカスしたほうが事態を掴みやすい気がする。前述した通りファンテンドは右組みの左一本背負投ファイター、相四つが相手でも右釣り手一本(相手の引き手の袖を一方的に制していつでも離せる「実質一本」も含む)でしか戦えない、本来ジリ貧タイプの変則選手である。こういう選手は地力のある本格派に弱い傾向があり、例えばかつて西山大希に喫した2敗は「持たれてはならない」という大枠の防御構造をフルタイム通じて崩せなかったものだし、ゆえに例えば国全体の傾向として「組む」ことをアイデンティティとする日本選手自体にいったいに取り口が悪い。今年は長澤憲大と村尾三四郎にいずれも一方的に3枚の「指導」を奪われて敗れている。

VAN T END, Noel
変則を練り上げたファンテンド、見事世界一の座を射止めた

というわけで筆者もファンテンドを「好きな選手だけど、最終的には脇役」の箱に入れっぱなしにしていたのだが、不明を恥じねばならない。何がこの戦術派のファンテンドを浮揚させたのか。地味ながらもっとも大きな要素としてまず挙げておきたいのだが、まずはファンテンド、明らかに柔道自体が強くなっていた。地力自体が上がることで戦術と技術が生きるという基本をこちらも忘れて彼を評価していた。そしてもう1つ、なんといってもこの「右手一本さえあれば柔道が出来る」≒「右手がないと柔道が出来ない」ということを中核にした戦術面での練り上げが素晴らしかった。この「評」で繰り返し今回の勝者の条件として語っている、「入り口と出口を定め、経路を有機的に組み合わせた技術体系の練り上げ」という部分で彼がこの日の最終勝者にふさわしかったということだ。「相手」(不特定多数)に対する自分のもっとも大きなアドバンテージは、自身の柔道に投下出来る思考量が絶対的に多いこと。自分の柔道を一番考える時間があるのは自分自身であり、研究してくる対戦相手ではない。この大原則を改めて思い起こさせる柔道の練り上げだった。筆者はこの1年、向の柔道に「モード」という言葉を使い続けて来たわけだが、それはすなわち担ぎ技を中心とした手堅いスタイルと自爆覚悟の「抱き勝負」という2つの世界がその柔道の中で寸断されていたことを意味する。いささか概念的だが「有機的な技術体系の練り上げ」という今大会共通の勝者の共通項に照らせばファンテンドに軍配を上げるのが正当であった、というのがこの第5日男子のトーナメントの解釈だ。「この厳しい90kg級世界で、なんとファンテンドが勝っちゃったのか!」という当日の驚きはそのままに。変則の知恵者ファンテンドの戴冠に拍手である。

生き残ったのは勝負師ばかり、「リオ直前」に回帰する90kg級の生物相

東京世界柔道選手権2019、90kg級メダリスト。左から2位の向翔一郎、優勝のノエル・ファンテンド、3位のアクセル・クレルジェとネマニャ・マイドフ。
ファンテンド、クレルジェ、マイドフと表彰台は「試合に強い」勝負師タイプが占めた

今大会の90kg級の特徴として、勝ち残った選手が過たず「試合に強い」勝負師タイプばかりであること、同時に「柔道自体の強さをテコに勝っていたタイプ」が全滅したということが挙げられる。表彰台に残ったメンバーは前述ノエル・ファンテンドに、向翔一郎アクセル・クレルジェ(フランス)ネマニャ・マイドフ(セルビア)と極端な勝負師タイプばかり。5位にもまさに勝負の巧さがアイデンティティのマーカス・ナイマン(スウェーデン)がいつの間にやらきちんと座っている。

対照的に前評判が高かった「柔道自体が強い」タイプの前年度王者ニコロス・シェラザディシヴィリ(スペイン)、同2位のイワン=フェリペ・シルバ=モラレス(キューバ)ベカ・グヴィニアシヴィリ(ジョージア)らはいずれも早期敗退。シルバ=モラレスが7位に入ったのが精一杯でこのタイプからは入賞者皆無と言っていい焼け野原状態だった。この階級の「柔道が強いタイプ」、実はいずれも“勝負ごと”には率直に言って強くなく、今回不出場のミハエル・イゴルニコフ(ロシア)も典型的なこの型。乱取りをやったらおそらく最強のこのチームが、肝心のビッグゲームではまさしく枕を並べて討ち死にしてしまった。

90kg級は「勝負師タイプ」(試合に強い型)について考えるのにちょうどいいので少し脱線してこのあたりを書くと。その武器が体力なのか戦術なのか試合運びなのか、はたまた勝負勘や「博才」なのかは人によって違うが、乱取りではなく試合という「ルールに縛られたゲーム」をコントロールするのに長けて、このことをテコに勝ち抜くタイプの暫定的呼称と考えて頂きたい。この「勝負師」たる所以が体力で試合を塗りつぶすことにある選手としては例えばいまのこの階級ならネマニャ・マイドフやクリスチャン・トートがおり、マイドフの出口は後の先の返し技(60kg級のルフミ・チフヴィミアニもそうだが、体力で塗りつぶした末の出口が後の先、というこの型の選手はいま増えている)、トートなら「指導3」ということになる。戦術性の高さなら寝勝負前提で勝ち抜くクレルジェやナイマン、試合運びや勝機を見極めることで点が高いのはファンテンドやマイドフという感じか。

実はこの「試合に強いタイプ」にとって最も取り口が悪いのは本来本格派(「柔道自体が強いタイプ」)なのだが、それは相手の地力が閾値に達した場合。本格派の強者は、地力が一定以上に達しないとこの「試合が巧いタイプ」の強者にはなかなか勝てない。逆にそのラインを超えるとそれまでの関係が嘘のように圧倒的に勝つようになる。(これはカテゴリを問わない現象で、むしろ若年世代では図式が単純化されてわかりやすいのでぜひ周囲に引き比べて考えてみてほしい)。そしてこの90kg級は本格派と「試合に強いタイプ」の乗り越え合いの中でこのラインが上がりに上がり、現状は「試合に強いタイプ」が優勢と捉えられる。シェラザディシヴィリらはその柔道の質の良さに比して、もっかこれをクリアするまでの圧倒的な地力を練れていないと考えるべきだ。

そして実は「試合に強いタイプが、柔道自体が強い型の強者を駆逐する」という傾向はベイカー茉秋やガク・ドンハン(韓国、ただし現在は少々スタイル異なる)が跋扈していたリオデジャネイロ五輪直前に相似。2016年夏はその勝負師同士の戦いの中で「体力ベース」×「戦術性が高く」、かつ「勝機の見極めに異常に長けた」ベイカーが最後に勝利したわけだ。実はこの観点で考えれば2017年世界選手権王者のマイドフも(到達点ではベイカーに及ばないが)属性としてはベイカーに相似。ということはこの4年間の世界大会では3回この「勝負師タイプ」が頂点に立っているということになる。今大会ではこの傾向がついに表彰台全てを勝負師タイプが占めるところまで進んだと解釈できる。

4年に1度というレベルのスパンで全ての選手が1大会に向けてフォーカスすると、勝負師タイプが「種」として強く、現状ではこの種が正統派を上位から駆逐しつつある。この90kg級の生物相が来年も有効である可能性が高いことを考えると、五輪の最終勝者を決めるのは「勝負師同士の相性」ということになってくる。そしてこのグループの中での力関係と純柔道力では向が一番上ではないかと考える。代表戦線はまだ予断を許さないが、向がつけている位置は決して悪くない

クレルジェ、マイドフと頭脳派健闘、ガク・ドンハンは負傷で力出せず

CLERGET, Axel
アクセル・クレルジェは2年連続の銅メダル獲得

目についた選手を何人かピックアップする。

アクセル・クレルジェ(フランス)とネマニャ・マイドフ(セルビア)が3位入賞。どちらも大向こうを「強い」と唸らせるような派手さはないが頭脳派で極端に勝負強い。クレルジェ、実は最終日の男女混合団体戦では決勝の村尾三四郎戦以外で実に3敗。シルバ=モラレスにイゴルニコフと続いた上位対戦は仕方がないとしても、初戦ではワールドランキング85位のヨハネス・パッヒャー(オーストリア)にGS延長戦「指導3」で敗れている。ファンの皆さんは村尾から取り切ったあの粘戦ぶりと寝技の強さを良く覚えていると思うので意外に思われるかもしれないが、この選手の常の出来からすればこれは「ありえる」範囲内。今年1年のツアーでも印象に残る戦いがほとんどなかったこの選手が世界選手権となれば2年連続3位なのだから、その極端な勝負強さ(今大会、フランスの記者に彼の話題を振るといの一番に「彼は物凄く頭が良いんだ」という答えが返って来た)がわかるだろう。

MAJDOV, Nemanja
3位決定戦、マイドフがクリスティアン・トートからトドメの隅落「技有」。これが今大会7個目の「後の先」によるポイント獲得である

マイドフはいわずと知れた一昨年の世界王者。あの世紀の大番狂わせで頂点に立ったブダペスト世界選手権から3年、この選手の現在地は今回の「決まり技」で良く見える。初戦から浮落「技有」(「技有」優勢)、内股透「技有」、内股透「技有」(合技「一本」)と前項でお話した通り「巧さ」と「体力」という2大特徴を前面に出した勝ち上がり。体の力が強いリ・コツマン(イスラエル)戦は「技有」ビハインドから相手の力を受けない「足を入れるかどうか勝負」の引き手を折り込んで体を外に逃がす大外刈「技有」で追いつき、最後は相手が勝手に崩れたところにスルリと潜り込んで拾った肩車(と技名を振るのがためらわれるくらいの空気投げ)「技有」で勝ち越し。準々決勝のパワー派ママダリ・メディエフ(アゼルバイジャン)からは再び隅落「技有」、隅落「技有」。3位決定戦は体力派(この選手に関しては「体力派」×「振る舞いは勝負師だが実は勝負強くない」というカスタムラベルを貼りたい)の勝負師クリスティアン・トート(ハンガリー)から隅落「技有」、隅落「技有」。今回決めた投技9回のうち、隅落が4回、内股透が2回、浮落が1回と実に後の先の技が7回、残り2つのうち1つは相手の崩れ際に勝手にもぐりこんだなんだかわからない技である。試合巧者ぶりまさに際立つ。

クレルジェは寝技、マイドフは「際」と得意は違うが、この2人がファンテンド同様実は地力を増している、「柔道」自体が明らかに強くなっているということには感心させられる。技巧派タイプはそれこそ「技術体系の練り上げ」という戦術自体に埋没して己を見失う可能性もあるわけだが、ファンテンドも含め、表彰台に上がったこの3人は同時に地力の涵養に余念がない。相手を自分から殴りにいけるようになったマイドフは世界タイトル奪取時より明らかに強くなり、相手の焦りを呼び込むことで「後の先」の決定率が上がっているわけである。マイドフは自分を高く買うことで一段上の力を発揮できる、「思い込み力」の激しい選手だが、それが「強くなれる」という信念として昇華されていると感じる。90kg級、まさに今後も予断を許さない。

3回戦、ガク・ドンハンがGS延長戦の末、クレン=クリストフェル・カリウライド(エストニア)から大外刈「一本」。まったくの無名選手を相手に5分以上を戦った。 (Photo: IJF)

時折姿を見せるツアーでは、かねて得意の背負投に加えて華麗な内股も盛って大ブレイクの予感すら漂わせていたガク・ドンハン(韓国)は今大会負傷でまったく力を出せず。釣り手の手首を痛めて、見る限りでは「押すことは出来るが、吊れない」状態。格下選手を相手にいずれもGS延長戦で勝利を収めるもファンテンドに負けて大会を去ることとなったのだが、むしろ担ぎ技という羽を?がれたこの酷い状態でよく戦ったという印象だった。

ここで今回金メダルなし、全階級通じて銀(66kg級キム・リマン)1個と銅(100kg超級キム・ミンジョン)1個という低空飛行だった韓国代表についてすこし意識を向けると、さすがに少々怪我が多すぎるのではないかと感じる。66kg級アン・バウルは足首負傷で両足を踏ん張る技がまったく掛けられず初戦敗退、73kg級アン・チャンリンは首の怪我で欠場(この人もかつて足首を負傷してほぼ1年近くまともに担ぎ技が掛けられなかった)、そしてこのガク。負傷選手が強行出場せねばならない層の薄さ(あるいは他の選手においそれと権利を与えられない競争の激しさ)も含めてちょっと心配になってしまう。100kg超級では昨年のアジア大会金メダリストであるキム・スンミンが当日欠場、女子はなぜかそもそも一線級を代表から下げており、その戦略少々測りかねる。五輪へ向けたこの国の戦略は春までのツアーで見極めるしかなく、この大会もその時点で照射しなおさないと意味づけが難しい。団体戦も半端な布陣で日本に0-4の完敗。成績的には間違いなく「悪い」のだが、ちょっと評価の難しい大会だった。

新井敗退、到達点の高さ試合に反映出来ず

3回戦、バルバラ・ティモが新井千鶴から払巻込「技有」
3回戦、バルバラ・ティモが新井千鶴から払巻込「技有」
TIMO, Barbara
母国ブラジルを離れたティモは移籍してこれが初の世界大会。覚悟がまったく違った。

3連覇を狙った新井千鶴は3回戦で敗退。昨年までブラジルの2番手であったバルバラ・ティモ(ポルトガル)が序盤に放った右払巻込で「技有」を失い、追いつけないまま試合を終えた。ティモはそのまま決勝まで進んで無印からなんと銀メダル獲得。

新井が実力ナンバーワンという評は今も変わらない。最高到達点の高さを結果に反映出来なかったとの解釈で間違いない。試合の経過は当日の「速報レポート」および同記事後半に掲載の「全試合戦評」を参照頂きたいが、ティモ戦に関しては開始42秒で「指導」を失っていることでもわかるとおり、まずあまりにスロースタートに過ぎた。実は当方もこの時点では選手同士の格を考えれば十分立て直せるラインと観察していたのであったが、まったく甘かった。不明を恥じる次第である。考えてみればこの日決勝に進むまでのレベルに力とコンディションを研ぎ澄ましていた選手に対して、この入り方では戦えない。ましてティモは移籍1年目。母国を捨てて臨む最初の世界大会で、王者を乗り越えねば入賞にすら手が届かないというこの一番に関しては覚悟がまったく違っていた。担ぎ技ファイターのはずのティモが懐に呑んで来たニヘル・シェイフ=ルーフー(チュニジア)ばりの大きく巻き替える右払巻込というとっておきの武器の保有はもちろんだが、これを超えて、この一番に掛けるテンションの差が勝敗を分けたとまずは大きく捉えるべきだろう。すべての試合で、「王者を倒す」というその日一番のモチベーションを胸に戦ってくる選手を相手にせねばならないチャンピオンという立場の宿命、厳しさが染みた一番でもあった。

Chizuru ARAI
新井はチャンスを作ることに時間が掛かり、3分掛かっても逆転かなわず

とはいえ新井の側にも課題は一杯。失点は試合序盤の1分0秒、その後大量3分という時間を残しながら追いつくことが出来なかったという事実は厳粛に受け止められねばならない。方法論はあと一歩、詰めは明らかに甘かった。寝技では、絞めを晒して抑え込むも「顎」を確認した主審が早々と「待て」を掛けるという不運はあったが、そもそもその前段の失点直後、相手の掛け潰れをすかさず「舟久保固め」に近い形で引きずり抑えた際には相手が反対側に体を回しかけているにも関わらず同じ方向に同じタイミングで跨いで体勢を直そうとする微妙な判断の末(筆者はミスだと思う)に、「解けた」となってしまう場面を演じてしまっているし、残り1分、残り20秒とほぼ投げかけている左内股を2度外に逃げられて腹ばいで落としてしまってもいる。そもそも追撃戦としては組み手に時間がかかり過ぎており、ゆえに相手の掛け潰れを許し、結果作ったチャンス自体が実力差に比して極端に少ない。「追撃」という1テーマのみを与えられた3分間、という観点からは到底合格とはいえない。

この「追いかける」1テーマ3分の中で、“相手に己の力や技をダイレクトに伝えられない”という新井積年の課題がいまだ払拭しされていないことが見て取れたと言えるだろう。かつて抜群の切れ味を誇る内股にそもそも「入る形が作れない」ところから、パワーを上げることでこれを塗りつぶし、さらに地力が上がったことで課題であった組み手の拙さが払拭されて来たというのがここ3年の新井の来歴だが、まだまだ組み手の方法論が生硬で登攀ルートが少ないと感じる。今回は二本使って釣り手をまず得、内側に肘を押し込むという正規ルートをきちんとたどっている間に時間が流れ、結果相手に組み手進行の止めどころを多く与えて「やり直し」となったシークエンスがほとんど。とにかく作りに時間が掛かった。昨年のマリーイヴ・ガイ(フランス)との決勝では「技有」ビハインドから内股で投げ返しているのだが、あれは当時試合運びとセルフコントロールに難のあったガイがリードにも関わらず背中を抱いての投げ合いを挑むというミスを犯したゆえ、力をまっすぐ出すことが出来た「棚からぼた餅」。しかし今回の団体戦決勝の対戦では襟を持ってしっかり相手の釣り手を上からコントロールすることで手立てを封じ、ガイが背中を抱かざるを得ない状況を自ら作ることが出来ていた。このような、「力を伝えられる組み手」に至る能動的なルートを多数多方面から確保すること、そして投げ際を逃がさず後の先を仕掛け難い「詰め」の方法論を己の技術の中にしっかり組み入れること。これがこの試合から導き出された二大課題になるだろう。前者は新井が国際大会を戦うようになった2013年からの一貫した、積年の宿題でもある。

新井は地力も上がり組み手も上達、メンタル面でも驚くほどの充実を見せているが、それでもなおその進化のスピードは「進化を続けねば勝ち続けられない」現代柔道競技で3連覇を成し遂げるにはまだ足りなかった、五輪の狭間の「時代」を全て塗りつぶすにまでには至らなかったというのが今大会の総括ということになる。そして今回再三「評」の中で基準として語っている「入り口、経路、出口」の有機的な練り上げという観点でいえば、今回の女子代表の中では新井はむしろ点が低いグループに属する。まだまだ出来ることはたくさんあるはず。純実力は間違いなくナンバーワン。為すべきことを為し、挑む側に立場を変えて臨める五輪では本来の力を発揮してくれると期待したい。

70kg級もいよいよレベル浮揚

東京世界柔道選手権2019、70kg級メダリスト。左から2位のバルバラ・ティモ、優勝のマリー=イヴ・ガイ、3位のサリー・コンウェイとマルゴ・ピノ
欧州勢の充実が70kg級の新たな勢力図を生み出している

なおこの70kg級、リオ後の2年間は全体として低迷していた感があるが、同じ状況にあった男子66kg級や女子52kg級と同様ここに来て一気に役者が揃い、世界が豊かになって来た。たとえば2017年あたりとは試合の面白さがまったく違う。今季上昇基調、初戦もすさまじい裏投一撃を見せて絶好調と思われたキム・ポリング(オランダ)や2017年ワールドマスターズ王者のブラジル1番手マリア・ポーテラのベテラン2人がいずれも3回戦で弾き返され、しかもそれが階級の状況に照らして「ありえる」と十分納得できる層の厚さ。女子63kg級だけがなぜか低調(上位の数名が極端に強いので目立たないが、トップ以外は焼け野原である)だが、五輪前年になってどの階級もいきなり面白くなってきた。リオデジャネイロに比べると業界全体として明らかに仕上がりが早い印象。いったい本番当日はどこまでレベルがあがるのだろうか。楽しみであるとともに、もはや少し怖くなってしまう域。

また、この日は90kg級でクレルジェが3位、この70kg級でガイが優勝してマルゴ・ピノも3位入賞。前日のクラリス・アグベニューの金メダル獲得に続き、この日だけでメダル3つをもぎ取ったフランスの大会全体としての好調がいよいよ明らかになった1日でもあった。

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