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【eJudo’s EYE】「リオー東京」の5年間、柔道競技はどう変わったか?/東京オリンピック柔道競技オーバービュー①

日本武道館に「オリンピックの柔道」が帰ってくる。

文責:古田英毅
Text by Hideki Furuta

コロナ禍による1年延期を経て、いよいよ東京オリンピック柔道競技の開幕が目前に迫った。eJudoでは今回も特集ページを組み、恒例の「階級概況・シード予想」「各階級有力選手名鑑」「プレビュー」「速報レポート」「評」をアップする。前者2つはeJudoLITEで無料公開、名鑑は250人を超える選手の戦歴や柔道の特徴を紹介する予定だ。それに先立って、「この5年で柔道競技はどう変わったか?」「五輪で勝つ選手の条件は?」というテーマで簡単に前提条件を語らせて頂きたい。実はまったく同じテーマで2016年にもプレビューコラムを書いており、いま読むと当時との差がよくわかってなかなか面白い。こちらもぜひ参照頂きたい。

https://www.ejudo.info/special/002594.html

あまり時間がないので、なるべく簡単に展開させて頂く。まずは、柔道界から見た「2021年の東京五輪」の位置づけを。

「ダイナミック柔道」総決算アゲイン、あの決勝のトラウマは払拭出来るのか?

<リオ五輪決勝、テディ・リネールはほとんど組み合わぬまま「指導2」対「指導1」で、原沢久喜を破った。>

2012年のロンドン五輪における競技内容があまりに低調だったゆえ、IJFは以後「旗判定の廃止」「攻撃アドバンテージの重視」「足取りの完全禁止」「持ちやすい柔道衣への規格変更」「組み手罰則の厳格化」と、「投げ合う」柔道の実現を目指して次々、それも大胆にルールを変更。「こんなに選手が集まらない試合に意味があるのか?」というような批判にもめげず粘り強くローカル地域にも進出して大会を増やし続け、ワールドツアー制度を推し進めた。2014年の公式サイトJudobase創設も特筆すべきターニングポイントだった。「世界のどこにいても、ツアーのすべての試合が映像で見られる」ことは加速装置として、当時考えていたよりも遥かに、極めて重要だった。

結果として、リオまでの4年間で確実に柔道競技は面白くなった。「投げずば勝てない」ルールは投技、特に足技の発達を促し、欧州を中心に手練れが増加。「足取り」の禁止は隅落や横車といった「後の先」技術の復古を呼び、攻防のレベルは一段も二段も上がった。攻撃アドバンテージでわかりやすく試合を決めるという観点からは「寝技を長く見る」措置の効果も大きく、「練習すれば必ず取れる」「知られていない技術のアドバンテージが大きい」属性を持つ寝技が爆発的に流行し、他競技からの技術流入も進んでこちらも欧州を中心にレベルが上がり続けた。Judobase創設により、髙藤直寿の「ナオスペ」のように新しい技が生まれては相互模倣で標準化するというサイクルがこれまでにないペースと速さで繰り返されるようになり、技術開発が活性化した。ワールドツアーの増加はそれぞれの地域で地元選手の大量参戦を呼び、民族格闘技の技術の移入がさらに進み、柔道競技は「異なる地域と格闘技文化からやってきた選手たちによる柔道ルールマッチ」とでも呼ぶべき活況を呈した。

そして総決算として迎えたリオ五輪、柔道競技は十分に面白かった。しかし、たった1試合がこの評価をがらりと変えてしまった。テディ・リネールと原沢久喜による最終戦、大会の掉尾を飾る男子100kg超級決勝である。準決勝でオール・サッソン(イスラエル)の袖釣込腰に揺さぶられ続けて危機を覚えた絶対王者リネールは、決勝で「絶対に負けない」超安全運転を志向。開始8秒で首抜きによる「指導」、1分8秒に「極端な防御姿勢」による「指導」と立て続けに反則ポイントを得ると、以降は相手に組ませないどころかもはや組むこと自体を拒否して、まったく柔道をしようとしない。リネールには残り33秒「組み合わない」咎で「指導」1つは与えられたが様相は変わらず、このままリネールが反則累積差2-1で勝利を収めるに至った。ルールに乗っ取ってドライに勝利を目指すリネールの姿勢は「スポーツ」としては当然で批判するには当たらないが、内容は紛れもなく、「しょっぱかった」。

ファン以上にこれに激怒したのがマリウス・ビゼール会長をはじめとするIJFの首脳陣。巷間伝え聞いたところによると直後、そして以後の振り返りでも「台無しだ」というような激しい言葉が幾度も聞かれたという。武道的な美意識をルールに反映させることで選手の行動原則を変え、見て面白い上質の試合を提供せんとしたIJFの壮大な実験は、もろくも失敗に終わった。

結果、IJFは以後の5年間「ダイナミック柔道」の実現に向けてさらなるルール変更を繰り返すことになる。試合時間の短縮、「有効」の廃止、「指導差決着」の廃止、「寝→立ち」の投技認定、「背中を着いた返し」の無効化(というよりも、相手の技の効果を認めることがほとんど)、などなど。2017年には合技「一本」の廃止という1年間かけての壮大な実験まで行っている。ロンドン―リオ期ほど「1つの変更」が直接的に何かを変えることはなかったが、複合的にメッセージが発せられ続けた結果、「投げ合う」勝負は明らかに増えた。すべての変更が指し示す方向は「はっきり勝負を決めること」と「わかりやすくすること」。これはベン図が重なる部分が多い。2016年当時のルールを箇条書きにして、それに手書きで今のルールを書き込もうとしてみると良い。「取り消し線」が圧倒的に多いことがよくわかると思う。柔道競技はリオ以降も進化を止めず、よりシンプルに、より「投げて(極めて、絞めて、抑えて)勝負を決める」方向に進んで来たのである。

というわけで。私見であるが柔道ははっきり面白くなった。玉虫色の決着などもはやほとんどなくなり、決まり技は種類が増え、攻防のレベルは上がり、見ごたえのある頭脳戦が、それも「投げ」という決着を目指す上質の駆け引きが幅広い層で繰り広げられるようになった。身びいきかもしれないが、もし4年に1度しか柔道を見ない層の人たちが今回の五輪を真剣に見てくれたなら、きっと「柔道は面白い」と思ってくれること間違いないと思う。思わない人たちがいるとすればそれは単に「日本人が勝つところを見たい」人たちではないかと想像するのだが(私はもちろん日本人に勝って欲しいし、彼らが日本らしい柔道を見せてくれれば最高だと思っているが、ここまで柔道競技が面白くなったのなら、良い試合が展開されて強い選手が勝ってくればもうそれでいいとまで思い始めている。かつてのように「こんなの柔道じゃない。日本が本当の柔道を見せてやる」という過剰な正義感は、柔道競技がここまで豊かになった状況では少々抱きづらい)、今回の日本代表は国内の育成状況どうあれかなり強いので、この層の人たちすら十分なカタルシスを得られるのではないかと思っている。

いまやリネールは大技勝負を厭わない。絶対王者のこの振る舞いが、この5年間の「柔道」がたどった道筋を体現している

ちょっと話が逸れたが。5年間かけて柔道競技は、本当に面白くなった。あの100kg超級決勝の直後ネット空間を埋めた「4年に1回しか見ない」一般人(柔道の潜在的顧客である)たちの「柔道は面白くない」「理不尽だ」というコメントを思い出す度にいち柔道ファンとして本当に辛い思いをしていたのだが、その当の本人であるテディ・リネール自身が己を「つまらない柔道」に縛り付けていた連勝街道から降り、「投げて決める」柔道に舵を切ってさらに魅力的な選手に成長したことこそが、まさに柔道が面白くなったことを端的に示してくれているではないか。

IJFの試みは、実を結ぶのだろうか。「ダイナミック柔道の総決算」アゲイン。今度こそ成功して欲しい。

柔道はどう変わったのか?読み解きのカギは「ワールドツアー」

タメルラン・バシャエフの背負投。「動けて担げる選手」はもはや最重量級では多数派だ。

柔道競技はこの5年間でどう変わったのか。技術的な傾向から真面目に話せば、たとえば「後の先技術の多様化」、これと鏡合わせの関係にある「巻き込み技の進化」(隅落に駆逐されかけた巻き込み技が、ゼリム・コツォイエフやヤゴ・アブラゼの外巻込、“腕受け渡し巻き込み”(もろに隅落への対抗技術だ)などで復古した)と「掛け潰れの減少」(抱分の標準化が低い担ぎ技の掛け潰れを駆逐しかけている)、さらに「捨身技の標準技術化」(浮技、横車、抱分、そしてこの期間は特に帯取返)、「民族格闘技の消化吸収」(やぐら投げ、サンボ式谷落、“モラエイ”)、「欧州における足技の流行」(“フォンセカ”などは代表格)、「中央アジアにおける腰技の発達」(後述するがスタン系の躍進はこの5年の大きなトピックである)、「重量級における担ぎ技の流行」(“ウチムラ”。いまや“担げるアスリートタイプ”はむしろ多数派である)、「寝技の発達」(ボーアンドアローチョーク、クロックチョーク、ネクタイチョーク、ホイジンハロール、加藤返し、舟久保固め、いずれももはや必須技術である)などなど、語り尽くせぬ間口と奥行きがあるのだが、これはあくまでディティール(極めて面白い、という接頭辞がつくが)。この5年間の変化を括るもっとも大きなパースペクティブは「ワールドツアーの爛熟」であると思う。

ワールドツアーの爛熟が生んだもの

試合と国際合宿の頻繁な繰り返しが豊かなワールドツアー文化を育んだ。

ロンドンーリオ期にはまだ試行期間の匂いが強くメジャー大会とマイナー大会の差がはっきりしていたワールドツアーだが、この5年間で差は縮まり、全体的にレベルが上がり、そしてすっかり「あることが当たり前」というところまで普及した。大きいのはやはり大会自体が増えたことと、これに伴う国際合宿の増加。国内の育成環境が整わない中堅国でもこのレベルの高い「試合と合宿」の連続シークエンスに参加し続けることで、ほぼ日常的に強国に劣らぬ情報環境と稽古環境を得ることが出来るようになった。旅から旅で合宿を続け、試合に出続ける選手たちが織り成すストーリーと繰り返される技術の革新を観察していると、ワールドツアーはもはや「文化」として定着したのだなあ、としみじみ思い知らされる。かつての国際大会(各国の柔道連盟が主催していた)が、たくさんの異なる土壌から集まった選手たちが1回こっきり一堂に会する「品評会」のシンプルな繰り返しであったとすれば、いまはワールドツアーがこれらたくさんの「異なる土壌」を大きなサークルの中に丸抱えして、「ワールドツアー」という1つの大きな土壌を作り上げていると感じる。この大きくて、極めて豊かな土壌の形成が柔道競技にどのような変化を及ぼしたか。思いつくまま書き出してみる。

・異常な速さの技術革新
コロナ休止期間のハンデを取り戻すべく、2021年は6ヶ月に7回という異常なペースで巨大大会が繰り返された。筆者はこれはワールドツアーの過去5年を凝集した、あるいはこの先5年を先取りした「時間加速器」だと感じたのだが、この間の坩堝感は物凄かった。出現した面白い技術には次の大会で早くもフォロワーが現れ、下手をするとすぐさま標準化し、場合によってはカウンター技術が出現してあっという間に陳腐化し、さらなるアップデートの必要に迫られる。大げさでなく、ワールドツアー創設前の「アテネー北京期」あたりには3年、4年かけて起こった技術革新が数か月で起こるレベルのスピード感だ。

・技術の多様化と平均化、「JUDO」スタイルの日常的なアップデート
5年前、ロンドンーリオ期の柔道競技は「異なる地域と格闘技文化からやってきた選手たちによる柔道ルールマッチ」と書かせて頂いたのだが、もっかの柔道競技には必ずしもこの観察は当てはまらない。いまは上記の通り「ワールドツアー」という大きなサークルが異質な土壌(=異なる格闘技文化)を複数丸抱え、しかもサークル内での技術の相互模倣が激しいので、これと思われる技術はすぐに真似られ、あっという間に平均化する。だから今や軽々に「ジョージアだからチダオバ」「モンゴルだからモンゴル相撲」「イランだからレスリング」「ロシアだからサンボ」「ブラジルだからブラジリアン柔術」などという見立てを語ってはいけない。その構図はちょっと旧い。有用な技術というのは実は特異な身体性能や文化背景がなければ力を発揮出来ないというものではなく(極度に文化土壌に依存する「日本の柔道」ですらかなり真似されている)、すぐれて汎用性が高い。だから「やぐら投げ」(柔道界ではモンゴル由来)も、帯取返(ソビエト由来)も、「モラエイ」(イラン由来)も、今は多くのトップ選手が当たり前に使いこなす。民族格闘技による地域差はあくまでベース、相互模倣と消化吸収サイクルの極端な加速によって良い技術はあっという間に標準化し、常に「JUDO」の平均的なスタイルがアップデートされている時代だと考えるべきだ。

余談ながら。だから、ここまで時代が進んでいるのに、いまだに濱田尚里選手の寝技を「サンボ仕込み」などと表現するメディアがあることにはとても悲しくなってしまう。何度も書くが、濱田のサンボ参戦は旧い時代から良くある「柔道の強い選手がサンボに出たら勝った」という典型的な事象で、濱田の寝技はむしろどこから切っても柔道のそれである。柔道家が柔道の技術で勝ち抜くことを他競技のラベルで表現するなど、選手にも、そしてどちらの競技にも失礼だ。我々は然るべき技術が行使されたときに、然るべきルーツを指摘すればそれで良いのだと思う。

・参加国の到達点の上昇
ワールドツアーに参加し続けている国、具体的にはヨーロッパの「大国でない国」のレベルが上がったと感じる。試しに「五輪直前」に行われた世界選手権の金メダル獲得数とメダル獲得数を書き出してみると、

2011年パリ世界選手権 金メダル7ヶ国、メダル23ヶ国
2015年アスタナ世界選手権 金メダル7ヶ国、メダル24ヶ国
2021年ブダペスト世界選手権 金メダル10ヶ国、メダル25ヶ国

インプレッションに適う。メダルを獲れるレベルの国が物凄く増えたわけではないが、そのレベルの中から頂点に届く選手を育てられる国が増えたということだ。ワールドツアー文化に積極的に参加したヨーロッパ地域の「大国でない国」がその恩恵を受けたものと解釈する。

・地域格差の広がり
ワールドツアーという文化が豊かになればなるほど、レベルが上がれば上がるほど、そのインナーサークルと、「それ以外」の差は開く。具体的にはツアーの中心であるヨーロッパの優位性が上がり、地理的に遠い地域が相対的に不利になるということが続いた5年間であった。この勢力図の地政学的変化をざっくり示せば、

ヨーロッパ:↑↑
中央アジア:
パンナム:↓ (ブラジル↓  キューバ↓  カナダ↑ )
東アジア:↓ (日本→  韓国↓  モンゴル↓  中国↓)

という感じであろうか。大方のファンがうなずいてくれると思う。ワールドツアー文化爛熟の一面である前述「柔道スタイルの多様化と平均化」により、どちらかというと選手の強さは「国」ではなく「個」に紐づけられる時代がやって来ていると思うのだが、目線を「地域」に広げるとかなり格差がある印象だ。特に東アジアは(いまだに軽量級は強いが)かなりの劣勢。ロンドンーリオ期に快進撃したモンゴルは勢いが減じ、常に女子78kg超級をリードしてきた中国は世代交代に失敗した。韓国の女子は、もはや国際の一線と呼吸が出来ていない。

・生き残った超強国
「柔道スタイルの多様化と平均化」により、時代は「国」から「個」へ。どの階級もまんべんなく強い超強国の数は減じているのだが、その中でも生き残った「超強国」を五輪前のこのタイミングでまとめてみたい。

日本:男女とも全階級強く、全階級複数のメダルクラスの選手を抱える。ここまでの国は日本のみ。国内の土壌が痩せておりツアー文化にも置いて行かれているのだが、傾斜強化方式で辛うじてトップ選手のレベルを確保、この地位を保ち続けている。
フランス:女子はほぼ全階級メダルクラスの選手を揃える。男子はいまのところ「個」。
ジョージア:男子はほぼ全階級メダルクラスの選手を、それも複数抱える。男子に限ればその充実度は明らかに日本以上。女子で水準以上はもっか1階級のみ。
ロシア:男子は多くの階級でメダルクラスを揃える。「66kg級は世代交代が間に合わなかったな、穴だ」などと評される国は今や逆に稀。女子も強いが男子に比べると一段レベルが下がる。
韓国:男子は複数の階級でメダルクラスが存在。女子はなぜか、この5年で崩壊してしまった。

もちろん尖った選手を複数育てている国はあるのだが、「どこも強い」という国はこのくらい。イタリアやウズベキスタンのように、強い選手を育てながら男女混合団体戦のレギュレーションにまったく噛み合わない国の存在に、このあたりは端的である。全体的にいうと、ウズベキスタンやカザフスタン、キルギスタンやタジキスタンなど中央アジアの国々が存在感を上げた5年間だったと思っている。

ワールドツアーに置いて行かれた日本、最後の「花火」は打ちあがるか?

ブダペスト世界選手権、日本は特に男子で苦戦を強いられた

これは本来ブダペスト世界選手権の総評、あるいは東京五輪の総評で書くべきトピックなのだが、機会が来たと捉えてここで少しだけ展開させて頂く。日本はワールドツアー文化に完全に置いて行かれてしまっている。加えて、ツアー文化の対立軸であるはずの国内の育成環境は細っていくばかりでもはやこの先対抗することは難しい(日本がコロナ禍で動けぬさまは育成環境が細っていくこの先10年のアナロジイ、とっととワクチンを打って国際合宿でガンガン稽古する欧州勢は爛熟するツアー文化の未来予想図だ)。ヨーロッパを中心に異常なペースで大会が行われたこの半年間の「時間加速器」と、その総決算であるブダペスト世界選手権の劣勢で、この現実がはっきり示されてしまった形となった。

ロンドンからリオに至る4年間は、まだまだ日本の育成・強化土壌は、ワールドツアーの対立軸として十分に伍するだけのレベルを保っていた。この稿前段の言葉を借りれば、「異なる格闘技文化」、それも上位の文化からやって来たゲストとして、上から目線で大会に降臨する資格を保っていたわけだ。

ワールドツアーの爛熟によって、いまやこの地位は逆転してしまった。

どんなに的確な施策でも、時間が経ち、状況が変わればその有効性は変わる。日本はこの間伝統的な傾斜強化方式を採り続けた。変わらず国際大会には「降臨者」として極めて限られた人数を送り込み、自国内の序列を決定する装置として利用するにとどめた。あまりに厳しすぎる国内のサバイバルと過密すぎるスケジュールからトップ選手を守るため、そして五輪で金メダルを獲るために採った「1・2番手偏重」(時期と目的から、その時の判断自体は決して間違っていなかったと思う)措置であったが、これが国全体(※ファンをも含む)のワールドツアー文化との隔絶を生んでしまった。

これは、あまりよろしくない。1つはいわずもがな、世界選手権も五輪もあくまでワールドツアーの磁場で行われるから。どこまで行っても「アウェイ」のこの状態を続けることは勝ち負けの観点からも、あまり良いことではない。

もう1つは国内のレベルが下がっているから。ブダペスト世界選手権の角田夏実の圧倒的な戦いぶりを見てわかる通り、レベルが上である限り、隔絶はむしろ武器。しかし現実として国内の育成環境は細り続けている。たとえば、先月の世界選手権で圧勝した100kg級のジョルジ・フォンセカ(ポルトガル)は長い間ツアーで決勝ラウンドに進めない「3回戦ボーイ」の業師に過ぎなかったが、あの2014年くらいのフォンセカ君が日本の国内で6年柔道を続けていたとして、このレベルまで育つことはありえただろうか。たとえば、2018年のワールドツアー決勝で関根聖隆に敗れたシメオン・カタリナ(オランダ)は以後12回ワールドツアーに派遣されたがほとんどすべて(8回)が予選ラウンド敗退。しかし派遣と強化を受け続けた結果13回目のグランドスラム・カザンでいきなり優勝を飾るに至った。この13回の間、関根のワールドツアー派遣は0回である。これを「層の厚さが違うから仕方がない」と切ってしまって良いのか。では関根はいますぐグランドスラム大会に出て、優勝するだけの力を国内で練ることが出来たのか。むしろなるべく多数の若手をツアーの「文化」に参加させることが、この先の強化には適っているのではないか。

まだまだ書きたいことも、個人的な提案(無責任で無邪気である)もたくさんあるが、後は五輪の後としたい。おそらくこの五輪で、日本は相応の結果を収める。後に残るのは焼け野原なのかもしれないが、「焼け野原を作ってでも、この勝負に勝つ」という方針で作って来た(結果的に)今回のチームは、率直に言ってかなり強い。ただ、勝っても負けても、日本は大きな曲がり角に立っていることを強く意識しておいてもらいたい。ここで変えなければもはや勝つことも、どころか柔道という文化自体を「続ける」ことすらかなわなくなってしまう状況なのだ。個人的には「五輪で勝ちたいなら五輪を忘れる」、業界全体で強さではなく豊かさを追求することが最終的には勝利を呼び込むことになると思うのだが、このあたりも五輪の結果が出てからとしたい。「黄昏の日本柔道、すべてを犠牲にして送り込むメンバーで、最後の花火を打ち上げることが出来るか」。個人的には、これがいまの日本の姿だと思っている。

世界に広がった女子強化文化

<エテリ・リパルテリアニ。これまで女子には難しいとされていた「やぐら投げ」を持ち込むなど男子同様のジョージアスタイルでジュニアカテゴリを席捲した。

日本の話ですっかり熱くなってしまったが、「この5年の柔道の変化」に1回話を戻して終わりとしたい。女子柔道の普及を考えるに、「男女混合団体戦」創設のインパクトは当初の予想以上に大きかった。これまで男子団体戦の強国だったジョージアがもはや出場すらおぼつかない事態に陥って女子選手の強化に乗り出した結果、57kg級のエテリ・リパルテリアニという逸材を、それも異質な方法論でツアーに解き放つに至ったのはご存じの通り。「女子にも機会を」というIJFの言葉はお題目ではなかったのだ。ジョージア、そして同じく女子の強化に乗り出したアゼルバイジャンはギリギリで今回の五輪には間に合わなかったが、以後もぜひこの「男女混合団体戦」を続けて、この文化を守ってもらいたい。

次回はリオ五輪同様「五輪に勝つ選手の条件は?」というテーマでお送りする。

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