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【東京世界柔道選手権2019特集】【eJudo’s EYE】善戦は評価されても肯定さるるべきではない、全日本女子の戦略立案は根本が誤っている・第4日評

クラリス・アグベニュー
田代未来とクラリス・アグベニューの決勝

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撮影:乾晋也、辺見真也

文責:古田英毅

善戦は評価されても肯定さるるべきではない、全日本女子の戦略立案は根本が誤っている

クラリス・アグベニュー、田代未来
女子63kg級決勝は今大会中盤戦のハイライト。感動的な一番だった。

女子63kg級決勝、田代未来対クラリス・アグベニューの試合は今大会中盤戦のハイライト。感動的な一番だった。試合経過など詳しいことは当日の速報レポート記事に譲るが、経過と結末は皆さんご存知の通り。熱戦実に11分11秒、最後は田代の乾坤一擲の抱きつき左大内刈をアグベニューが耐え切り、田代が体を戻した一瞬に払巻込一撃。アグベニューの「技有」で勝敗が決した。疲労、達成感、そして悔しさのあまりしばし動けぬ2人だったが、戦後「人生でもっとも厳しい試合だった」と語ったアグベニューが先に動き、田代をかき抱くと持ち上げて抱擁。互いの健闘をたたえ合った。挑戦者の執拗な攻撃を回避だけでなく常に自分の攻めに繋ぎ続けてついに勝利を得たアグベニュー、絶対王者をあと一歩まで追い詰めた田代。日本武道館の大観衆は2人を大歓声で讃え、その拍手はしばし鳴りやむことがなかった。

筆者も感動した。闘うという行為の美しさ自体を人に知らしめるような素晴らしい一番だった。着々勝利に向かって歩を進め、アグベニューを削り続ける田代の姿には、あの天才がようやく世界一になるときが来たのだと身が震えるほどの興奮を覚えた。

ということをまず表明した上で。しかし、だからこそ我々はここで道を誤るわけにはいかない。この試合における田代と全日本女子が採った戦略はその根本が間違っている。素晴らしい一番だったと評価することはあってもこれを肯定することがあってはならない。勝つか負けるかを基準点とする「作戦立案」の答案としては落第だ。

なぜか。答えはシンプルだ。出口を考えていないから。演繹的に考えられた作戦だから。どういう結末を迎えるかという具体的なアクションから帰納されて考えられた作戦ではないから。どう仕留めるかという最後のピースを定めていない作戦だから。ということはそもそも「なんとかやる」ために、善戦すること自体を目標に立てられた作戦だと断じられてしまっても仕方がないから。これらの言葉、全部同じことを言っているが、つまりはそういうことだ。

虎を弱りに弱らせて、削りに削って、もう良いだろうと仕留めに近づいたところを食われた、というのがこの試合の様相なわけだが。

田代未来、クラリス・アグベニュー
田代はアグベニューの左袖を抑えて横にずれ、巧みな進退でそのスタミナを削る

この試合は左相四つ。田代は、釣り手で奥襟を叩くことが生命線のアグベニューを前に、右引き手で相手の釣り手の袖を体側に織り込み、半ば横を向かせる形で横変形に位置し、足技でスタミナを削ることを繰り返した。なぜかと言えば、非常に大きく言って、まともにアグベニューの力を受けると勝ち目がないからである。ここまではまったくの正解で、序盤に田代の大外刈を誘ったアグベニューが上体の接触に頼らず脚だけで弾き返し掛かった場面でわかる通り、彼女のパワーはあまりに強大。正面から相手の体の力を受けないようにするのはまさにそれしかない正解と言える。

田代未来
延長、田代が勝負技に選んだのは大内刈だった

しかし田代が決めの勝負技、「出口」として選んだ技は抱きつき(クロス組み手)の左大内刈という、まさにもっとも相手の体の力を受けやすい、これまで周到に回避して来たはずの「相手と正面から力比べをする」技である。これまでに採った作戦と完全に矛盾している。ここまで周到に削りに削った上で、なぜ作戦のイロハのイで、まず「やってはいけない」と大前提に据えた行為を仕上げに選ぶのか。これまでの労や思考の、これでは自己否定ではないか。

なぜ抱きつき大内刈だったのか。なぜ増地克之監督は戦後「勝負に行った結果。田代の選択は間違っていない」とコメントするに至ったのか。

田代と全日本女子は、「アグベニューに奥襟をもたせず、引き手で袖を折り込んで反時計回りの進退をベースに試合を進め、相手のパワーを受けないまま足技と組み手で削りに削る」プロセスまでを考えて、最後の詰めを考えていなかったのではないだろうか。控えめにいって、そのもっとも大事なピースを曖昧にしていたのではないか。残念ながら畳の上で起こったことから観察する限りでは、少なくとも筆者はそうとしか解を見いだせない。

筆者がここに危うさを覚えるのは、ここに単に詰めを誤った、最後の一手が甘かったというような文字通り「あと一歩」の問題ではなく、「まず結末を考えて、そこから帰納して第一手目までを考える」という対格上戦における、いや「作戦立案」という行為自体の根本を外してものを考えているのではないかという匂いを濃く感じてしまうからだ。

これがいかに危ういものであるか。団体戦を考えてもらうとわかりやすい。ジャイアントキリングを成功させるチームは過たず、最終的に誰がどう取ってどのようにスコアで相手を上回ったまま全戦を終えるかの明確なシナリオが出来ている。最終的な着地点が具体的かつ明確であるゆえ、チーム全員に為すべき役割と条件分岐に応じて取るべき行動が共有される。一方「こうすれば勝負になる」までで思考を止めるチームは、どんなに肉薄していても最終的には絶対に負ける。極端な例を言えば、たとえば金鷲旗大会で全国優勝候補に挑む地方校の監督がエース、あるいは先鋒を指さし「お前が取れば勝負になるからな」と喝を入れる。これは、最高到達点を「勝負になる」ところまでで思考を止めた実質的には勝利放棄宣言だ。実力差が、少なくとも本当に「勝負になる」ところまで詰まっているのであれば挑戦者に必要なものはただ1つのみ、明確な出口戦略だ。入り口と大枠の条件分岐だけを考えて試合に臨めるのは、自身の力が相手を上回っている場合のみ。自身が相手より明確に強い場合にのみこの行為は許される。格上相手に出口戦略なく臨むのは、少なくとも「作戦立案者」の観点からはあってはならない。

この一連の「評」で、今大会の王者は過たず自分の技術体系に特化したマイカスタムの「入り口、経路、出口」をしっかり練り上げている選手ばかりと繰り返し語っているわけだが、日本人はいったいにこういう思考が苦手で、トップ選手の中にも意外に出口戦略が明確でない選手が多い。(これがきちんと出来ている日本の女子は、今回の代表で言うと阿部詩と芳田司、素根輝だと考える)

削りに削って、「相手の体の力をまともに受けずに自身の技術を生かす」大方針に則ってフィニッシュに辿り着かんとしたのであれば、例えば田代の手持ちの出口なら小外刈がある。小外刈でなくても田代の最後の選択がこの大方針に適った技であればまさに筆者は「勝負に行った結果だから仕方がない(取り得るもっとも可能性の高い方法を選んだ結果力が及ばなかった)」と評するところだが、単に自身の「勝負技」をフラットに並べてボタンを押したようなこの選択にはどうしても納得がいかない。「納得がいかない」論理的な理由はそこに作戦上の整合性がないから。そして感情的な理由は、田代は出口さえきちんと定めれば十分勝てたはずだからだ。

強調したいのだが、筆者は非難をしているわけではない。一に、このままでは日本は危ない、と喉を嗄らして警鐘を鳴らしたいのだ。田代の力は十分アグベニューの首に手を掛けるところまで来ている。しかし今回の結果への態度を誤ると、来年の本番で、田代のみならず、十分手が届くはずの日本選手が、作戦立案という「知恵の投下」でどうにでもなる僅差の試合を取り逃してしまうのではないか、一にその恐怖感からの発言であることを汲んで頂きたい。渡名喜風南とダリア・ビロディドの試合を「差が詰まっている」と解釈し、田代未来とクラリス・アグベニューの試合を「あと一歩だった」と肯定する。それは、違う。現れた現象的にはあと一歩だったが、作戦としてはもっとも大事なはずのスタート位置を誤っていた、出口を定めぬままにルートだけを考えていた、つまりは作戦立案という行為自体の根本を誤っていたと猛省せねばならないはずなのだ。

もう一つ筆者が危惧するのは、この「絶対的な強者をギリギリまで追い詰め、しかる後に斬られる」というドラマが、極めて日本人の感情に受け入れられやすいことだ。ここまでキツイことを言う(自覚はある)筆者自身が、2人の闘いの美しさと、あと一歩届かなかったという一種勝利以上に甘美なシチュエーションに陶酔してしまっていた。危ない。闘い自体の素晴らしさに誘いこまれて、進むべき道を誤ってはならない。

田代がアグベニューを追いかける時間、届かない時間があまりに長かったゆえ、知らず「善戦」を前提とした作戦に甘んじてしまう。それは仕方がない面もある。しかし田代は既にアグベニューに善戦し、1度だけだが勝利した来歴もある。十分勝てる力があったはずなのだ。

どんなに評価しても、2人の素晴らしい戦いに拍手を贈っても、この試合を肯定してはならない。筆者は見た。実況中、田代の敗北が決まった瞬間、中村美里さんは悔しさに突っ伏し、田知本遥さんはその肩を抱いた。田知本さんの目には光るものがあった。そして2人は大拍手で熱戦と2人の健闘を讃えた。しかし締めの言葉として中村さんが仰ったのは「厳しいことを言うようだが、もう10回目。勝たねばならない試合だった。同じ相手にここまで勝てば、この選手には勝てるものだと思い込ませてしまう」という厳しい言葉だった。私もこの言葉で魔法が解けた次第である。熱戦に拍手を、出口戦略の欠如という決定的失敗には冷静な審判を。あらためて、もう1度タイトルに立ち返ってこの項を終わる。「善戦は評価されても肯定さるるべきではない」。

谷本歩実-リューシー・デコス戦が羅針盤になるかもしれない

谷本歩実vsリューシー・デコス (Photo:IJF)
谷本歩実vsリューシー・デコス (Photo: IJF)

とまで書き終わって。既にイメージをダブらせて考えている識者も少なくないのではないかと思うのだが。田代未来とクラリス・アグベニューの関係を、谷本歩実とリューシー・デコスのそれに敷衍して考えることは「来るべき勝利」のヒントになるかもしれない。

同じ63kg級、ともに日本とフランスそれぞれのエース。谷本は2005年からこのデコスにカイロ世界選手権決勝という大一番も含めて3年越しで3連敗。そして迎えた2008年北京五輪決勝、これまでの来歴から自身を格上と規定したデコスが上から目線の位押しで攻めるも谷本はそこに確信をもって必殺の刃を入れる。あの、デコスが勝利を確信して踏み込んだ大内刈を自らの内股に切り返しての「一本」、五輪史上ベスト一本級の伝説的な一発はこうして生まれたわけである。

同じ日本とフランス、同じ63kg級、そして同じく互いにライバルと認めながらも分が悪い力関係。これを最後の大舞台でひっくり返すには何が必要なのか。田代の所属(コマツ)の先輩で、かつコーチでもある谷本はこの答えを実は持っているのではないか。

自身を格上と規定した相手を罠に誘い込むことが出来るのであれば、そしてそれが厳しい力関係をひっくり返すのにどうしても必要な「作り」と規定できるのであれば。現在のアグベニューと田代の「10-1」という一方的なスタッツは、これぞ完璧なお膳立てではないか。
ひょっとすると、すべてをひっくり返せるのかもしれない。その「作り」が出来た大会だと、後年この大会の苦杯を伝説へのターニングポイントとして昇華させることが出来るのかもしれない。

あらためて。羅針盤は同じ五輪、3大会前の奇跡の一番「谷本歩実vsリューシー・デコス」だ。

長所を見失った藤原

藤原崇太郎
藤原崇太郎は初戦敗退に終わった。

昨年の銀メダリスト、81kg級の藤原崇太郎は初戦敗退。シャロフィディン・ボルタボエフ(ウズベキスタン)を相手に「指導2」リードも体の強さをタテにじわじわ寄り続ける相手の圧に焦ったかクロス組み手に応じて背を抱いての裏投に出、ここに左大内刈を合わされて決定的な「技有」を失った。ボルタボエフはその後準々決勝でサギ・ムキ(イスラエル)に僅か25秒で一本負けして最終結果は7位、藤原は相手の「確変」というエクスキューズも失ってしまった。

試合内容の詳細は速報レポート記事と同記事内の全試合戦評を参照頂きたいが、技術的なディティールには目を瞑って、敢えて大枠で話を進めさせて頂くと。

今大会、敗れた日本代表男子選手は自身の長所を発揮出来なかった、あるいは自身の長所をそれと自己規定出来なかったケースが多いのではと考えている。攻撃すること自体がアイデンティティというスタンスを貫けなかった永山竜樹しかり、自身の出口は投げしかないと自己規定し切れなかった原沢久喜(筆者はこう評価している)しかり。そして藤原もそれに嵌る、というのが筆者の見立てだ。

筆者は藤原を生粋のインサイドワーカーだと思っている。高校時代、全日本カデ2連覇に高校選手権連覇、さらにインターハイ優勝と1年生時から結果を残しまくっていた藤原に対する当時の観察は「とにかく相手が良く見える選手」。これぞという必殺技はないが、まるで30歳を過ぎたベテラン選手のように組み手で蓋をし、足技で誘導し、相手の出口を見定めてそこに的確に罠を張る。いつの間にか「指導」でリードされた相手が、やむなく勝負に出てくれば過たずそこを後の先で捉える。あまりに成熟、というよりもはや老成の域に達した戦いぶりと、その玄人好みのスタイルに似合わぬスーパースター級の派手な成績を引き比べて、率直に告白するが「将来さほど伸びないのでは」と心配してしまったほど。こういう、若いころから戦い方に鑢を掛けることで結果を残すタイプが、常にそのレベルの成績を残し続けようとすると精神的にも技術的にも疲弊して擦り切れてしまうことがままあるからだ。だから、国内のキャリアをすっ飛ばす形で国際舞台に立つようになった藤原が大技、どころか「抱き勝負」からの裏投までを駆使するようになったことは、さすが藤原ただものではない、自身と相手の柔道が良く見えるゆえ、単に手堅いだけでなく必要と感じたものはたとえリスクがあるものでも冷静に武器に加えるのだな、とそういう文脈で捉えていた (だから、報道陣が「得意技は裏投?」などと質問すると逆に感慨を覚えたものだ。あの石橋を叩いて渡るタイプの藤原が、裏投が得意と捉えられるほど大胆な試合をしてくれるようになったとは、と。)。筆者は、あくまでこれは藤原がその手札に単に1つ加えた非常時のオプションなのだと考えていた。

というわけで。藤原が、「指導」差2-0リードの本戦終了間際というまったく一発勝負など必要ない状況で、それもパワーファイターを相手にリスク満載の「背中抱き」の挙に出たことには驚いた。役がほぼ揃いつつあるにも関わらず手札すべてを交換して相手とタイの立場に降りる、あるいは卓上にカード全てを放ってやっぱりナイフで斬り合うことにする。およそまったく彼らしからぬ選択である。

相手の寄せる圧に焦りつつあるとは見て取れたが、藤原が捌けない相手ではない。現に2-0と反則差はリードしている。常の藤原なら顔色を変えずに崩し続け、時間を掛けても指導差「3-0」前提でクロージングする試合だったのではないか。相手の弱いところを突くのが得手のはずが、相手の一番やりたいフィールドに自ら手を広げて突っ込んでいく。藤原は希代のインサイドワーカーという自分の長所を見失ったと評価するしかない。

藤原が一瞬まったく彼らしくないパニックを起こした、その根拠をこの短い試合の中だけで見出すのは難しい。ただしこの挙が勝利には全く必要ない「足し算」であることから敷衍すれば、そこには勝ちぶりを一段上げようとする無意識的な、あるいは意識的な衝動が働いたと考えるのが自然だ。

思いつく理由は、根拠が薄いながらも2つのみ。1つ目は、-私には藤原はそんなタイプとは思えないのだが―、派手な投げを決めるようになったことで自分の柔道を見失っていた可能性。得意技がないのが長所の藤原が、裏投という看板になり得る必殺技を得て「勘違い」してしまっていたという見立てだ。

もう1つは、こちらは誰もが心の中で考えて、立場のある人間はなかなか実際に口にできないだけだと思うのだが、永瀬貴規の追撃というプレッシャーが藤原を追い詰めていたということ。4月の選抜体重別に優勝したばかりか7月のグランプリ・モントリオールとグランプリ・ザグレブの2大会をいずれも圧倒的な内容で取り「完全復活」と評されるもと世界王者の足音が、そして海外のコメンタリーが「なぜ(永瀬がいるのに)日本の81kg級は藤原が出るんだ」と評する状況(また聞きである)が、ひたひたと藤原の精神を蝕んでいたと解釈するのが妥当であろう。

「藤原があんなことをするわけがない、常の藤原ではいられない何かがなければあの挙はありえない」という私の前提から導ける貧しい仮定はこれが精一杯である。いずれにせよ、藤原がインサイドワーカーという自身の本質を見失っていたことだけは言える。藤原の裏投はそれ単体でパワーファイター打ち揃う81kg級世界で看板になるものではなく、彼が何でも出来る捕まえどころのない極めて優秀なオールラウンダーであり、その中の「手札の一」として適切な状況で繰り出すがゆえに機能していたものである。状況関係なしにスイッチを押して効くものではない。

バクー世界選手権の銀メダルにグランプリ・デュッセルドルフ優勝と、着々実績を積むことで王者の復活に蓋をしてきた藤原が初戦敗退で入賞にすら絡めず。81kg級の日本代表戦線は混沌としてきた。

サイード・モラエイについて

MORAEI was under pressure
準決勝で敗れたモラエイ。直前まで直接、そして家族を介して当局から激烈な圧力を受け、到底戦える状態ではなかった

今回ついに決定的な事態を迎えた、81kg級バクー世界選手権王者サイード・モラエイに対する、母国イランの出場辞退強要問題について。既に速報レポートで、これまでの経緯と現場で見えた範囲のことを記した。以降も日本のメディア、特に朝日新聞さんがこの件を濃密にフォローしてくれていて、国内のファンにもこの深刻な事態を知る人が増えた。いまさら筆者ごときが語るべきところは少ない。現時点でどうしても読んで欲しいものを1つ挙げるなら、IJFによる迫真の当日ルポ「THE TRUE STORY OF A FIGHT FOR LIFE」だ。英語が苦手な方はgoogle翻訳に放り込めば概要が掴めると思う。あの日、モラエイに出場辞退を迫ったイラン政府当局の凄まじい恫喝と脅迫の様、モラエイの動揺が生々しく記されている。いま、モラエイはIJFの保護を受けてドイツにおり、今後進むべき道を探っているところだ。IJFは難民選手団としての東京五輪出場を勧めているとのこと。

「イスラエル・ボイコット」問題。特にイランとイスラエルの問題は、当たり前だがこれ自体は解決できない。少なくとも人間1人のライフスケールで測れるような時間感覚で解決をイメージするような問題ではまったくない。極めて原理主義的な政府当局とかねて自身もアテネ五輪をボイコットすることとなったアラシュ・ミレスマイリが会長を務めるイラン柔道連盟、そしてイランの一般国民とではそれぞれ意識も違うし立場も違う。実は単に国家権力とアスリートという大きな対立構図だけで括り切れる問題でもない。ゆえに解決を待ってそれをベースに行動するという手立てはまったく非現実的で、これは国際問題のフレームで別の行動軸、別の時間軸で気長に進めてもらうしかない。

それはそれで、モラエイ個人としては、やはり移籍するべきだと思う。国があり、家族がある中でこれまた軽々に発言すべきではないのかもしれないが、本人が望む限り、人が己の才能や力を発揮できる機会は決して奪われるべきではない。これまでイスラエル問題に積極的に立ち向かい、あろうことか北朝鮮で世界ジュニアを開催しようとまでしてきたIJFだが、こちらは変わらず「柔道に国境はない」「Judo more than sport」と良い意味で図々しく、高所からの綺麗ごとを敢えて揚げ続けて行動してほしい。危なっかしいことこの上ないのだが、柔道はこういう「綺麗ごと」を掲げる資格があり、社会に益する可能性のある数少ない優秀なインフラだと思う。その上で、裏では泥沼の交渉や駆け引きを厭うべきではないし、選手を守るという責務を全力で果たすべきである。とにかく、人間が己の可能性を全力で問う、その場を奪われるべきではない。これを座視することは競技云々でなく「柔道」のレゾンデートルに反する。

私ごときが発言出来るのはこのくらいだ。ただ、IJF、上記の記事を出したからには本気で戦うつもりだろう。大会後もtwitterアカウントのハンドルネームを「#ISupportMollaei」に変え、彼のライブインタビューを行い、イラン当局とほとんど全面対決の構えだ。行くところまで行くしかない。IJF、イラン当局、そしてIOCの動きから目が離せない。

ムキ優勝、「両袖と片襟」の変則極める

SAGI MUKI
決勝、ムキの背負投「技有」。今大会も片襟と両袖から右に左に投げまくった。

81kg級を制したのはモラエイとともに優勝候補に挙げられていたサギ・ムキ(イスラエル)。両袖、あるいは片襟から左右に担ぐという変則ファイターだが、スタンスを変え、組み手を変え、前後を晒し、高低差を使い、相手の動きの先に転がり、あるいはその長い足を股中に突っ込んで固定し、とあらゆる手立てを使って自身の技の威力を最大化。ここ数年続いた史上稀に見る混戦の「まとめ」となる五輪前年の世界選手権王座を射止めた。

2日目評から繰り返し書かせて頂いている「己のタイプに合わせて入り口と出口を定め、その経路を有機的に張り巡らせた、マイカスタムの『技術体系』を練り上げているものだけが勝つ」という観察、そもそもこの第4日目・81kg級のムキあたりからその見立てが始まったわけなので、ここに至って改めて書き重ねることはさほどない。「両袖と片襟」という共通項を持ちながら段違いの引き出しを持つ新王者、これは阿部一二三にとっても参考になるのではないか、と付け足すくらいか。

イスラエル男子はこれが初めての世界選手権金メダル。女子で初の世界王者となった63kg級のヤーデン・ゲルビは自宅から迂闊に出られないほどの人気者になったということだが、ムキがかの地でスターとしてどう扱われるかが楽しみである。

と言っている間にもうCMに出演していた。動画のURL(インスタグラム)を紹介する。プラスチック食器のCMだと思うのだが、何というか、なぜこうなるのかよくわからないあたりも含めてもう最高である。ぜひご覧あれ。

→サギ・ムキ出演のCM動画(インスタグラム)

ついに軸が定まった81kg級

アントワーヌ・ヴァロア=フォルティエ
3位決定戦、長い手足を存分に使ったアントワーヌ・ヴァロア=フォルティエの体落「技有」

久々上位候補、軸と考えられる選手がある程度しっかり勝ち上がって上位に座ることとなり、戦前の観測に照らして納得できる結果となった81kg級。東京五輪の様相が見えて来た。激動のリオー東京期はついに収束しつつある。

この日、柔道にさほど詳しくない人が会場で薄眼を開けて試合を見ていたとしても、「あの人が強い」とピックアップしたであろう選手は、ムキとモラエイの2人。明らかに一段抜けていた。昨年の世界選手権から1年間のワールドツアー、そして今回と観察して、2020年東京五輪の軸はどうやらこの2人と定めて良いのではないだろうか。この2人を軸糸に有力選手が絡みついていくという構図になるはずだ。

「優勝候補20人」状態からこの「絡みついていける有力選手」もだいぶ絞られて来た感があるが、今回このクラスタから一段飛び出しそうな気配を見せたのは29歳になったアントワーヌ・ヴァロア=フォルティエ(カナダ)。7月のツアー2大会で連続2位の勢いをそのままに、伸びのある体落を軸とした素晴らしい柔道を披露。3位決定戦ではこれまた今大会非常に良かったモハメド・アブデラル(エジプト)を、内股を晒しながらの切れ味鋭い体落で斬り落として「技有」奪取、みごと銅メダルに輝いた。ロンドン-リオ期には懐の深さを生かして「指導」を取りに来る戦術派のイメージが強かったが、いまやその長い手足は「投げ」を構成する重要部品として目いっぱい生かされている。釣り手を高く揚げ、長い足を直下に降り落としてくる体落は魅力抜群。直前のツアー2大会の決勝でいずれも彼を問題なく退けた永瀬貴規の株まで玉突き式に上げてしまう、素晴らしい戦いぶりだった。

かつて「指導」奪取に用いられた長い手足が「投げ」に生かされ、しかも繰り出す技は「組み合って仕掛ける」ことに極めて向いた体落。持ったまま掛けられ、返されにくく、連続して仕掛けられて、他の技との連動性が高い。ロンドン五輪以降のIJFの「組み合う」ことにフォーカスした一連のルール変更はエキサイティングなゲームを創出するとともに、「同じ勝ちでも、投げねばならぬ」という美意識をルールに反映させるという壮大な文化実験でもあったわけだが、かように、ルールが競技者の振る舞いを変え得るという好例になったのではないだろうか。ヴァロア=フォルティエ1人を通して、柔道競技の変化と、その好ましい方向性が垣間見えた。

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