【東京世界柔道選手権2019特集】【eJudo’s EYE】濵田尚里の柔道はホワイトホール、100kg級の潰し合いすり抜けたフォンセカ・第6日評(女子78kg級、男子100kg級)
撮影:乾晋也、辺見真也
文責:古田英毅
大会6日目以降の「評」であるが、この頃になると競技直後の「速報レポート」の段階で既にかなり「評」に近いことを書かせて頂いている。ゆえに続く試合(全日本ジュニアやマルちゃん杯、全日本学生体重別)に時間と労力を割いてしまったのだが、まとめとしてもう少し、やはり記しておきたい。なるべく簡潔にメモを起こすつもりで書かせて頂く。
最終的には「吉」、濵田の「無謀な大外刈」を総括する
ただただ気味が悪かった。怒りもなければ驚きというのともちょっと違う。白昼山道で何か人ならざるものとすれ違ってしまったような居心地の悪さ。言うまでもなく、濵田尚里の決勝におけるマドレーヌ・マロンガ戦において突如飛び込んだ大外刈についてである。当日書いたレポート記事の該当場面をここに引用する。
<ビハインドは負ったものの残り時間は2分以上と十分、そして得意の寝技に持ち込めば十分勝てる相手。勝負はこれからと思われたが、ここで濵田は異次元の選択。完璧に組み負けた状態から無理やり腕一本を抱えての右大外刈に踏み込む。相四つというパワーを受けやすい関係でしかも体格と力が勝る相手に、それも完璧に組み勝たれた状況で、かつどんな相手であっても構造上必ず一瞬力比べになる大外刈を、その上時間がたっぷり残ってかつ寝技という具体的に勝機のある選択肢を打ち捨てて、目を瞑って仕掛ける。あまりにも「斜め上」の理由がまったく理解しかねる選択。相手の釣り手の横棒に自ら喉を突っ込む形になった濵田は当然崩れ、マロンガが釣り手を上げて大外返を放つと足先から頭まで反りかえる異様な姿で轟沈。大外返「一本」。これまでも度々規格外の選択を見せて来た濵田だが、その柔道の「理のなさ」は我々の想像を遥かに超えていた。まったくやる必要のない「自殺」としか表現しようのないこの一撃で、濵田の連覇は潰えた。>
以後も個人的にかなりの感情の量を費やした場面なのだが、時間も経ってしまったし、もうこれで十分だと思う。第4日評で田代未来の大内刈を「作戦意図と整合性のない選択」と評価させて頂いたわけだが、あれはまだ、なにゆえそこに至ったのか想像することが可能。この一撃は宇宙から地球の生態系とまったく違う突然何かが降って来たような、良くも悪くも(今回は「悪い」)とにかくすべての文脈を無視したチョイスだった。あの「大外刈に大事なことは、自分を信じること」と熱く説く田知本遥さんですら、一方で「少しでも組み勝っていなければ大外刈にはいかない」と話す、リスクが高いゆえに、実は「理」の裏付けが極めて大事な、どんな相手とも一瞬まっすぐ力比べをしなければならないあの技を、もっとも向かない状況と必要のない背景をわざわざ選んで、何の気なしに発射スイッチを押す。昨年度大会決勝で見せた「相手の脚を挟んだまま一本足状態で後退」の”ペンギン歩き”ディフェンスなど目ではない。短銃の引き金と全世界を己もろとも滅ぼす核兵器のボタンが選択肢としてフラット。私は悔しさも怒りもなく、ただひたすら気味が悪く、恐ろしかった。
ただし濵田、東京五輪では優勝すると思う。濱田の立ち技の「理のなさ」はもはや修正は利かず、言ってしまえば修正する必要もない。濱田には、やれば絶対に勝てる寝技があるからだ。そしてほかならぬ濵田が、この2日後に行われた男女混合団体戦で同じ強敵マロンガに勝利したあと、「寝技をやれば絶対に勝てると思った」と発言しているからだ。
濵田は機会あるごとに「寝技よりも立ち技が好き」「稽古は立ち技が中心」「投げて勝ちたい」と言い続け、囲み取材では「引き込むのがあまり得意ではない」との旨発言して、「投げて勝つ」ことへの憧れを包み隠さず吐露している。なにしろあれだけ国際大会で勝ちまくった2017年度の総括として濵田が語った「年間もっとも嬉しいこと」は当年の講道館杯で投げて勝ったことだったのだ。
その一方で、マイラ・アギアールのような立ち技の巧者には割り切って寝勝負を挑み、この世界王者相手に過去2戦していずれも送襟絞「一本」で勝利を収めてもいる。今回の敗北で、濵田はマロンガを「自分が一番強い部分を当てなければ勝てない選手」の範囲に含めたのだろう。そして、自分の一番のストロングポイントが寝技であることがあらためて骨身に染みたのではないか。プレビュー記事に書かせて頂いた通り濵田の寝技は最強、一方立ち技も凄まじく強いがパワーファイター打ち揃う78kg級世界にあってはこれはあくまで平均レベルである。濱田が確実に勝とうとするのであれば、寝技をやればよいのだ。
周囲が勧めても懇願しても「でも私は立ち技」と言い続けた濵田が、ライバルの痛打によって、最強の武器を「最強」であると自覚した。今大会の成果はこれで十分なのではないか。
濵田は勝つ。団体戦、あの巨人マロンガ相手に「絶対に寝技に持ち込む」手段がワンハンドで抱き着いての谷落という力業であったことにはまたもやハラハラさせられたが、この極端な引きだしの不足も濵田が「寝技に持ち込んで勝つ」ことに肚を決めた以上確実に解消されるであろう。来年の日本武道館、濵田は豊富な「立ちから寝」の手段を駆使して、金メダルに辿り着くはずだ。周囲との力関係だけで言えば、濵田が割り切って寝技に舵を切る限り勝てる選手はいない。敢えて言うが収穫十分、むしろこれ以上の収穫はないというくらいの大会であった。
であればなんでわざわざあの失敗をもう一度掘り起こすのだ、という声に対して。評価は評価。男女混合団体戦の大活躍により、メディアがこぞって英雄扱いし(妥当である)、強化に近い人々までが「でも、濵田は当日の朝『団体戦に出てくれるか?』に『はい!』と即答してくれたんです」とその肚の据わりっぷりを絶賛し(筆者も絶賛する)、それはそれでまことに正当なのであるが、あの大外返が「なかったこと」のように扱われるのは筋が違う。評価は評価。あの選択はトップ選手としてはまったくありえないが、しかしそれが吉と出たことが団体戦で証明された。濱田評、今回のシナリオはこうあるべきだ。
「思い切り掛けた結果だから良し」という声について
ただ、せっかくの機会なので「思い切り掛けた結果だから仕方がない」という評価いったいについて考えてみたい。例えばこの濵田尚里対マドレーヌ・マロンガ戦の大外刈、あるいは田代未来のクラリス・アグベニュー戦の大内刈に対してこの声を掛けるのは間違っていると思う。この理屈で試合を括って評論を止めてしまうことは、最終的にはこの国のトップ競技者全体のレベルを下げることにすらなりかねない。ファンであっても、いやファンであればこそ、軽々に口にすることは憚られるべきではないか。
それはまず「思い切り掛けた結果だから良し」という言葉は、本来的には育成のための方法論であり、業界を成り立たせるための我々の知恵(便法)であるからだ。
私たちはなぜ「思い切り掛けた結果だから仕方がない」というのか。それは私たちが、「思い切り掛けることが是である」という価値観のもと、そう言って自分たちの稽古を肯定してくれる素晴らしい指導者たちのもとで育てられたからだ。筆者も、たとえば小学生の教え子が体格差に怖じず思い切り大外刈に出て、然る後に返されたならば口を極めて褒める。それはもう、抱き締める。
それはまず、これからの競技、そして人生に「勇を鼓す」という行為がどうしても必要だから。衆目集まる一対一の勝負の場という特異な状況に引きずり出されて、しかも負ければ叩き付けられたり抑えつけられたりする見た目の屈辱多き競技でありながらなお勇気を出して相手に立ち向かう、このことこそ柔道を学ぶことで得られる大事なことだと考えるから。そしてもうひとつは、この「勇を鼓す」ことで得られるトライアルアンドエラーを繰り返すことでしか、人は技を体得出来ないからだ。どの状況であればこの技は掛かるのか、この技の成立にはいったい何が必要なのか、今組んでいるこの相手に自分の技は掛かるのか。これを体得するには膨大な数の失敗が必要だ。この「失敗の絶対数」(そして少数の成功体験)を担保するためには「思い切りいく」行為を肯定し続けるしかない。だから我々は、挙げて「思い切り掛けた結果なら良し」という声を掛け続ける。この価値観を共有出来ていることは、我々の業界の、間違いない美徳の1つだ。
もうひとつ。「思い切り掛ける」価値観を共有することで、ゲームとしての成立を担保するという業界全体の叡智(無意識的にせよ)があると思う。仮に「相手に投げられない」あるいは「守った末にルールを使って巧くゲームを拾う」という価値観が大多数を占めるような世界では魅力的な競技は成り立たない。我々が柔道を楽しみ、良き競技として成立させるためには、そして投げるという柔道最大の魅力を互いに体感するには、「思い切り掛ける」(掛け合う)ことを是とする文化土壌を持ち続けることが一番効率が良いはずなのだ。
そして多くの柔道修行者はこの価値観を抱いたまま、それでいて競技自体は卒業していく。だから「見る」立場になっても、トップ競技者をこの「思い切り掛けたか否か」というフィルタに掛けて評価してしまいがちだと思うのだが、ここで考えてみて欲しい。これを我々の業界が挙げて育成上の共通認識に据えて、トライアルアンドエラーを推奨するのは、最終的には、“仕掛けるべき適切な状況で理に叶った技を掛けられるようになる”ため、言葉を裏返せば、まさに“適切でない場面で理に反した技を仕掛けて取り返しの付かない失敗をしないための知恵と技術を身に着ける”ためだということを。トップ競技者とは、「育成」が行きついた先の最終形態である。育成カテゴリという「手段」の価値観とモノサシで、そのカテゴリの「目的」であり最終到達形態であるトップ選手を測るのは本末転倒だ。
トップ選手が目を瞑って「思い切り掛ける」挙に出た場合、我々が為し得る評価はそれが採り得る選択肢のうち最善のものであるかどうか、あり得る選択かどうか(≒その選択が効く状況を作り出せていたかどうか)、という点にまず絞られるのではないか。センターサークル付近から思い切り蹴り飛ばしたシュートでカウンターを食って失点したとして「思い切りいった結果だから」と褒めるファンはいない。思い切りいくことが適切な場面で勇を鼓したかどうかが重要だ。例えば、今回の濱田の大外刈であれば、ビハインドを負った残り数秒という場面であれば十分「アリ」だったと思う。採り得る選択肢が秒単位でどんどん削られていく中、手数を最小限に打撃力としては最大の大外刈に勝負を掛ける。これは失敗に終わったとしても「仕方がない」と評されるべき。たとえ無謀な技であっても、リスクがどんなに大きくても、逆転の可能性がある選択を敢えて為さねばすべてを失ってしまう場面だからだ。もしもこれが失敗に終わったとして、原因はこの場面自体にはなく、それ以前の戦いにフォーカスして語られるべきということになる。
「思い切り掛ける」行為は尊い。誰もが常に懐に呑んでおかねばならない、これ以上ない最高の武器だ。ただしトップ競技者に対してこれを無条件に肯定するのは少々筋が違うと思うし、その声を大きくし過ぎてはならないと思う。その価値観に背中を押されて、全員が「思い切りいけば良し」とのみ自己規定して戦うトップ集団などありえない。ぜひ「その思い切りは適切であったか(≒思い切り掛けられる状況を作ることが出来ていたか)」というフィルタを1枚挟んで試合を評価してみて欲しい。
濵田の柔道はホワイトホール
この項は「五輪で勝つには単に強いだけではなく、何か異常なところが必要」という観点から。
あの大外刈(大外返)を、現象として巨視的に考えてみる。あの一撃は、ここ十年近く打ち続いた「理のない78kg級世界」最大のハイライトであり、極まりであり、そしてこの膠着した競り合いを逆説的に突き抜けるマイルストーン的な一発であったと捉えることが出来るかもしれない。
なぜか国内海外世代を問わず力で力を制すパワーファイターばかりが打ち揃って正面からの殴り合いを続け、あるいはコンディションの良しあしに極端に成績が左右され、あるいは外から見ると不可解な選択による自滅で強者があっさり消えていく、ということが打ち続いてきたこの階級。野生動物が噛み合いを続けるようなこの78kg級世界に、寝技という「理」を持ち込んで続けて頂点に立ったのがリオデジャネイロ五輪におけるケイラ・ハリソンであったと、筆者は大きく見立てている。以後さらにパワー化が進み、理のなき“野生化”が進行するこの世界にあって、どうしても体力体格に劣る日本勢はどう戦えばいいのか。その答えが、一種「理」のなさを極めた、濵田という突き抜けた存在であるとは考えられないか。
今回の世界選手権評では一貫して「入り口、経路、出口」をしっかり定めた選手のアドバンテージを強調しているわけだが、これで言うと濵田の柔道は出口しかないいわばホワイトホール。入り口もルートも定かならぬままひたすら膨大な質量だけを吐き出し続けるその器の大きさは、もはや筆者ごときの望遠鏡では観測不能である。常の基準であればあの場面での大外刈は現象として勝敗を度外視(良し悪しではなく、最大価値を勝敗に置いていない)しているとすら言えてしまうし、アウトプットとしてマロンガを見事「一本」に仕留めたその入り口が抱きつきの谷落であるということも常の物差しでは測り切れない。国内の追撃勢力である佐藤瑠香や梅木真美、そして髙山莉加は、柔道の純実力的には世界の頂点に立つものがあると評価出来る(梅木は実際に世界王者になっている)のだが、海外選手の誰も持ちえないものを持っていること、そしてこの「器」のスケール感、「破れ」を持っているかどうかという点では濵田に圧倒的なアドバンテージがある。理のない世界に理を持ち込んだハリソン、そして本来「理」の固まりである寝技をベースに、「理」で測れないスケール感で抜け出しつつある濵田。五輪の頂点登攀に必要な「異常さ」は実はこの理のなさ、濵田のもつ人間としてのスケール感で埋められるのかもしれない。ここ数年、五輪で勝つには異常性、理屈を超えた「破れ」が必要であると書き続けてきたわけだが、徹底的に「理」なく、しかし余人にはない「破れ」を明らかに備えた濵田が、「理のなさ」がベースにある78kg級世界を最終的に制することが出来るのか。これは非常に面白い観点だ。常人では持ちえない「破れ」を持つ、むしろそれしか持っていない濵田が、あと1年で常の強者が携える「理」をも手にするのか、それともやはりあくまでこのスケール感の大きさを以て頂点に辿り着くのか。
常の物差しでは測れない濵田、ということでもうワンエピソード。あの支離滅裂な大外刈を返されて豪快な一本負けを喫した直後。濵田は心から相手の勝利を祝福するという体の満面の笑みで握手を求め、勝ったマロンガは一瞬理解が出来なかったのか恐怖して思わず一歩後ずさっていた。濱田のスケール感が78kg級の「野生動物」たちをあっさり凌駕した瞬間だと思う。これはいい意味で言うのだが、ちょっと、狂っている。
少なくとも、あの大外返の場面が、「リオー東京」期の78kg級世界におけるターニングポイントとして語られるようになることだけは間違いないと思う。
踏みとどまったウルフ
100kg級のウルフアロンについては、コンディション不良という観察に尽きる。レポート記事でも書かせて頂いたが、初戦から「受け」がおかしかった。初戦の無名選手コッフィ=クレーメ・コベナ(コートジボワール)の背負投に崩れ、ゼリム・コツォイエフ(アゼルバイジャン)の技を得意の隅落に捲るも投げ切れず、ミキタ・スヴィリド(ベラルーシ)との3回戦も有無を言わせぬような強さはなし。準々決勝、チョ・グハン(韓国)の背負投をさばき切れずに前に崩れる場面でこの観察は極まった感あった。
「受け」、実は今年のウルフの来歴を括る大きなトピックでもある。減量ゆえに体が軽かったと後に振り返ることになる2月のグランドスラム・パリ決勝ではそのやり口を知悉しているはずのヴァーラム・リパルテリアニ(ジョージア)の巻込技を受け切れず意外な「技有」を失って敗退、しかし無差別で挑んだ全日本柔道選手権では小川雄勢はじめ並み居る大型選手の攻撃を体の芯で弾き返し続けて初優勝まで辿り着き、貼るべきラベルはまさに真逆の「受けの強い選手」であった。抜群のインサイドワークと投げの威力を誇るウルフであるが、これを支えているのは体の強さ、受けの強さなのだ。
ゆえに、準々決勝での敗戦ののちにシャディー・エルナハス(カナダ)とエルマー・ガシモフ(アゼルバイジャン)という強敵2人を破っての3位獲得という結果については、むしろ良くやった、この悪コンディションで良く踏みとどまったと肯定的に評価したい。いかに調整に失敗しようと確実にメダルに辿り着けるだけの方法論を確立していると、一種の信頼すら得たのではないかと思うくらいだ。しかしこう言ってはなんだが、まさかウルフがコンディション調整を誤るとは思わなかった。生来の慎重さを、準備の確かさと緻密なインサイドワークを持って「大胆さ」という現象にまで昇華して見せる頭脳派ウルフをしてこのようなことが起こるのか、とこの部分に関してはかなりの衝撃を受けた次第である。
パリ-全日本-世界選手権と続いた流れを踏まえれば「そもそも体重は適正なのか」という疑問を持たれて然るべきであるし、国内に代表争いのライバル不在の「一人旅」状態の悪影響かとも考えたくなってしまう。とにかく次戦で万全の調整を為してウルフらしさを発揮してもらうしかない。現状誰がどう言おうと100kg級の五輪代表ほぼ間違いないこの状態、そして今大会の激しい「潰し合い」の様相を見る限り、コンディション調整こそ来る五輪の最重要要素である。1度しかない五輪にずばりフォーカスすることが出来るのか。捲土重来を期すグランドスラム大阪で、まずこれをしっかり見せてもらいたい。
潰し合いすり抜けたフォンセカ
ジョルジ・フォンセカなんと優勝!日本代表ウルフの敗退は悔しいが、それを抜きにすればもう最高である。当日会場での実況解説をお聞き下さった方には存分に語らせて頂いたつもりだが、66kg級のデニス・ヴィエル(モルドバ)に続いて今大会の個人的「推し」が日本のファンにその魅力を存分に披露してくれたばかりかまさかの金メダル獲得。しかも準決勝の「はしゃぎすぎてごめんなさい」の手を合わせての謝罪、決勝終了後のダンスパフォーマンス、そして最終日の男女混合団体戦では代表戦で負傷し泣きじゃくるチームメイトの女子70kg超級のホシェリ・ヌネスを「お姫様抱っこ」で場外まで運ぶ(のちに確認したが、試合場を降りて廊下に回ってもちゃんと抱っこして車椅子まで運んでくれたとのことだ)ジェントルマンぶりで一躍人気ものの座を射止めたのだから、もう言うことなしである。会場のそこここで写真撮影を求められるフォンセカの姿を見て、筆者は勝手に大満足であった。
勝ち上がりはレポート記事に濃く書かせて頂いたのでそちらでお楽しみ頂くとして、フォンセカについてもう少し紹介しておきたい。かつては序盤戦で素晴らしい足業「一本」を見せるが後半戦は疲労してパワーファイターに屠られることが多くなかなかTV中継枠(3位決定戦以降)に残ってくれない、ゆえに紹介する機会が少ないという典型的な「技は切れるが勝負に強くない」業師タイプであった。しかしゆえに玄人のファンも多い。かつてIJFのメディアチームの某氏に「好きな選手は?」と問われたときに「フォンセカとか・・・」と答えるとパッと表情が明るくなり「いいね!」と肩を叩かれたことなどは忘れられない(ちなみに傍らの若手が忖度して「リネール」と答えときには首をかしげていた)エピソードだ。ロンドン五輪後の「組み合う」ルール下でまるで日本人のような巧みな足技を獲得し、しかるのちに(コーチの角田豪氏の薫陶か)投げの威力と緻密さをも得たという、「ロンドン後の海外選手いったいの発達ルート」をこれ以上ないほど体現した、実は現代IJF柔道の典型的存在であるとも言える。巨視的に見ればこの選手の戴冠こそ、「組み合う」2012年以降のIJFルールの正当な産物と言えるかもしれない。
そしてその際彼(IJFメディアチームの某氏)から聞いたことであるが、フォンセカは、所謂「がんサバイバー」でもある。大会後ユーロスポーツの記事としてJudoinsideのHans Vanessenさんが書いた記事があるので一読をおすすめする(彼は今大会ユーロスポーツのコメンタリーを務めた)。最貧地域のサントメ・プリンシペ民主共和国出身、2015年に癌を宣告されるも化学療法を続け2016年のリオデジャネイロ五輪出場。そして今回はポルトガル初の世界柔道選手権金メダル獲得である。辛い過去を持つ陽気な業師フォンセカ、以後もぜひ気にかけて頂きたい。
さてそれはそれとして。フォンセカの戴冠が有力選手による壮絶な「潰し合い」の間隙を縫ってのものであることも忘れてはならない。フォンセカと準決勝を争ったガシモフはここまで、影のV候補と囁かれたアルマン・アダミヤン(ロシア)、さらに前戦でカールリヒャード・フレイ(ドイツ・この試合で股間を強打して病院搬送されたとの情報がある)を破ったラファエル・ブザカリニ(ブラジル)、そして第4シードのマイケル・コレル(オランダ)と続いた強豪との連戦のせいか試合が始まるなり肩で息をしてまともに動けない状態だったし、反対側のブロックではまずウルフとチョ・グハン(韓国)がGS延長戦に縺れ込む接戦を演じ、続いてこの試合を勝ち抜いて疲労し切ったチョと、ここまでシリル・マレ(フランス)にシャディー・エルナハス(カナダ)とメダル候補2人を倒して来たイリアソフが総試合時間10分に迫る大消耗戦を演じている。勝ち残ったのはイリアソフだが、決勝を前にしてもう壊れていたと言っていい。準々決勝でヴァーラム・リパルテリアニ(ジョージア)を食うまでメダルクラスの選手と戦っていないフォンセカとは1大会まるごとに近いくらいの消耗度の差があったのではないか。
ここまで強豪ばかりとなると、東京五輪ではコンディション調整、そして具体的な組み合わせが非常に重要になってくる。フォンセカのような短距離走者が再び頂点まで辿り着くかとなると現実的には考えづらい。準決勝が始まるなり膝に手を当てて大きく息を吐いて動けなかったエルマー・ガシモフの姿に、あまりにも強豪が集まり過ぎた現在の100kg級の様相は端的。スタミナが有り余るようなコンディションを作っておかないと「狙って勝つ」ことは難しいだろう。常のウルフはスタミナのある「尻上がり型」で本来のコンディションであればこの様相には向いている。とにかくしっかりしたピーキングが必要だ。また、現状100kg級はランキング上位がそのまま「危険な選手ランキング」として機能しえない非常に読みにくい状態になっているが、シード順を上げておくに如くはなし。本番に向けてランキングポイントの調整可能な、余裕を持ったスケジューリングを考えておくべきだろう。