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海老沼匡が現役引退、「すべてを柔道に捧げた、悔いはない」/【eJudo’s EYE】記者の目・海老沼選手に贈る言葉

<引退を表明した海老沼匡。所属の吉田秀彦監督とともに。>

66kg級で世界選手権を3連覇、ロンドン・パリと五輪で2大会連続銅メダルを獲得した海老沼匡(31)が、15日、所属のパーク24の本社で記者会見を行い。現役引退を表明した。

海老沼は冒頭、「柔道選手としての引退を決めました。昨年の講道館杯の決勝で負けて、国際大会で活躍することが厳しいと思いました。」と決断の経緯を説明。今月4日に行われた全日本選抜体重別選手権で優勝したが「終わったなという気持ちがあって、寂しさのほうがこみあげて来た」と引退への迷いはなかった。

これまでの柔道人生については、「自分の中ではオリンピックで金メダルを取るのがすべてだったので、そこだけは反省が残るが、柔道にすべてを捧げて来たので、悔いはない」と総括。今後は指導者の道を目指す。自身の「ベスト一本」には、2012年4月の全日本選抜体重別決勝の森下純平戦、ロンドン五輪出場を決めた支釣込足「一本」を挙げた。

会見の要旨は後掲。

【eJudo’s EYE】記者の目・海老沼選手に贈る言葉

<2013年9月、世界選手権で2度目の優勝を決めた海老沼匡 >(photo:IJF media team)

文責:古田英毅
Text by Hideki Furuta

初めて海老沼選手を取材したのは2009年の全日本ジュニア選手権。「足取り禁止」のルールが施行された初めての大会だ。優勝候補に挙げられながらもこのルールに縛られた海老沼は得意の肩車を1度も出せずに敗れ、練習道場でひとり涙にくれていた。半ば無理やりに話を聞く失礼を犯し、なおかつ足取り禁止の是非に議論を繋ぎたい記者に対してしかし大学2年生の海老沼は「ルールは関係ない。自分の柔道が出来なかったというだけ」とキッパリ。一切言い訳をせず、己の責を貫くこの「サムライ」ぶりは31歳で引退するまで変わることはなかった。

ご存じの通り、66kg級では世界選手権3連覇。2013年のリオ大会決勝ではアザマト・ムカノフ(カザフスタン)の反則腋固を食らい、重症を負いながらも、まさに言い訳せずに大内刈「一本」で優勝を決めた。巷間伝えられるところによるとムカノフは試合後、「骨が折れたかと思ったが攻めて来た。サムライだよ」と驚嘆したとのこと。孤高の強さを誇った66kg級時代の海老沼の姿を、もっともよく語るエピソードはこれだと思う。

<講道学舎の後輩・大野将平と戦った2019年選抜体重別73kg級準決勝は史上に残る名勝負だった。>

本人は「73kg級に転向して、柔道の楽しさや奥深さがさらに味わえるようになった」と語っているが、我々の印象もこの自己分析とまったく比例。転向以後の海老沼はまさに「名勝負製造機」。あくまで組み合い、攻められても攻める、投げられるリスクがあっても自分が投げに出る、柔道の醍醐味これぞという打ち合いで我々を魅了し続けた。そこにはかつてのひたすら強かった、ある意味悲壮感漂うほどに勝ち続けた66kg級時代とはまったく違う魅力があった。海老沼の試合を見ることがこれほど楽しみだった時期はないし、この時代もっとも試合を見るのが楽しみな選手は間違いなく海老沼だった。ベストバウトは講道学舎の後輩である大野将平と戦った2019年全日本選抜体重別準決勝。互いにこれで勝負を決せんと大技を打ち合い、返し合い、攻め合うたび、「待て」が掛かるたびに観客席から拍手とどよめきが沸き上がる様は、まるで昭和時代の全日本選手権を見るかのごとく。投げて勝負を決せんとふたつの肉体がぶつかり続けるその様はまことに美しく、柔道の魅力はこれだと魂を揺さぶるものがあった。勝負は海老沼の右一本背負投を大野が切り返し、9分30秒谷落「技有」で決着。力を使い果たして大の字に天井を見上げる海老沼、勝利の判定を見届けゆらりと立ち上がる大野。そして大拍手の中、試合場中央で握手を交わす2人。忘れようにも忘れられない熱戦、現場で見ることが出来てこれほどまで幸せだと思った試合は以後もない。

<2020年講道館杯決勝、9歳年下の原田健士を攻めまくる海老沼>

投げることにすべてを注ぎ、試合も稽古も全力で戦うことが当たり前。いまの若い世代の強化選手クラスが当たり前に、もはや無意識的に持つこの新しい文化を牽引したのは、間違いなく海老沼だ。最年長の海老沼がこれが当然とばかりに息をするように全力を尽くす、その姿が周囲に与えた影響いかほどか。ちょっと見た目ヤンチャな選手でも礼儀正しく振る舞い、稽古もトレーニングも全力を尽くすことが当たり前、むしろそれが恰好良い。これは井上康生監督体制が生んだもっとも大きな変化だと思うが、じわじわ、もはや強化選手以外の若い世代全体に染みこんで来ているこの文化を牽引したのは海老沼だ。海老沼に直接引導を渡す形になったのは9歳年下の原田健士。2019年講道館杯決勝、そして2020年講道館杯決勝とビッグネームの海老沼に怖じずに前に出続け、堂々投げ合いを演じる様が印象的だった。この2試合で敗れた海老沼には、しかし胸を張って欲しい。だって、投げられても投げに出る、前に出続けて勝負する。「息をするように」これを貫く原田は間違いなく、あなたが引っ張り、あなたが作った文化が生んだ選手の1人なのだから。

この先指導者の道に進むということだが、個人的に勝手な希望を申せば、若い世代、たとえば高校生の育成に携わる立場に立って欲しい。どんなときにも前に出て、最後まで「一本」を狙い続ける「学舎イズム」は若い世代にこそふさわしく、その伝道師として海老沼以上の人材はいない。

<本人が挙げた「ベスト一本」は、2012年選抜体重別決勝、世界王者森下純平から挙げた支釣込足「一本」。>

海老沼は、自身のベスト「一本」として2012年の選抜体重別決勝の森下純平戦、ロンドン五輪行きを決めた支釣込足「一本」を挙げた。実は筆者が「海老沼が記者会見をする、おそらくは引退」という状況で前夜自分なりに考えた、彼のベスト「一本」はまさにこれだった。相手は内股一発ですべてをひっくり返してしまう可能性が常にある、「破れ」とジャンプ力が売りの業師森下。しかし誰もをあっと言わせる投技「一本」ですべてを決めたのは海老沼のほうだった。それも想定外の支釣込足で。常に我々の想像の上を行く人であり、その派手な「想像の上」の投げを決めるために、日々の地道な努力を怠らない人だった。得意技は「投げること」。いつまでも見ていたい選手だった。畳を去る「サムライ」に心からのお礼と、拍手を送りたい。本当に、お疲れ様でした。

引退会見要旨

<引退会見に臨んだ海老沼>

――海老沼選手から発表があります。

柔道選手としての引退を決めました。昨年の講道館杯の決勝で負けて、国際大会で活躍することが厳しいと思いました。講道館杯の後、ここで一区切りと吉田総監督に相談しました。

――吉田秀彦総監督、相談を受けていかがでしたか。

吉田:東京オリンピックに選ばれなかったのが匡の中でも大きかった。パリを目指すのも(厳しいということが)本人が一番わかっていると思うので、本人に言われたときは、そうか、と思いました。

――海老沼選手にお聞きします。先日の選抜体重別でも優勝。迷いはなかったのでしょうか。

自分の中ではもう引退することを決めていましたので、終わったな、という気持ちの方が大きかったです。試合の緊張感やスリルがもう味わえない。そう思うと寂しさがこみ上げてきました。

――オリンピックに2大会出場、世界選手権では3連覇。印象に残っている試合は?

私の中ではオリンピックで金メダル取ることがすべてだったので、ロンドン、リオともに準決勝で勝てなかったのは…。どちらも、その準決勝が強く心に残っています。

――背負投が得意技で数々の「一本」がありますが、ご自身のベスト「一本」は?

そうですね…あまりないですね(笑)。僕の中で印象に残っているのは背負投ではなく、ロンドン五輪最終選考会で森下選手を投げた支釣込足。それで代表が決まったので、一番印象に残っています。

――ご自身の柔道人生はいかがでしたか?

五輪で金メダルを取れなかったので、そこだけは悔いというか、後悔も含めて反省もあります。ただ、自分自身は全てを柔道に捧げてきたので、全体を通しては悔いはありません。

――どのような指導者になりたいですか?

今後パーク24のコーチとしてやらせていただく予定です。試合に出るのは選手なので、どうすればもうひと押し「プラスワン」ができるコーチになれるかというのを考えていきたいです。

 

<会見には吉田秀彦総監督、実兄の海老沼聖監督が同席>

――海老沼聖監督に質問です。引退すると聞いたときは?

海老沼聖:講道館杯の後に聞いたときは、まだまだやれるという思いもありました。その後本人から、体の部分も含めて選抜体重別でやり切りたいとあらためて話を聞き、それは本人が決めることなので、こちらも一緒にやり切ろうと思いました。(―どんな指導者になって欲しいですか?)高い舞台を経験した選手なので、世界で勝てる、取れる技術を伝えてほしい。

――監督から見て、弟の海老沼匡選手はどんな男ですか?

海老沼聖:小さいときから見てきて、負けん気も強く、決めた道は突き進む。後輩たちの見本であり、引っ張っている存在。人望があると思います。

――吉田秀彦総監督にもお伺いします。

吉田:パーク24の柔道部を作って3年目、まだ何もないときに入ってきてくれて、本当に嬉しかった。強い柔道部は他にもあるのに、何もないチームに入ってくれて、基礎を作ってくれた。そういう面では漢(おとこ)だと思う。柔道にも素直に向き合い、試合も「漢」になる。なにをとっても見本になる。こんな日が来るのは寂しいです。オリンピックの金メダルという、成し得なかった部分がありますが、これも含めて指導者として頑張ってほしい。日本だけでなく海外でも勉強して欲しい。そのためには英語も必要だし。そのあたりも頑張ってもらいたいですね。

――海老沼選手、髙藤選手や阿部選手ら後輩に向けてコメントをお願いします。

私自身もそうだったのですが、悔いのないように。迷ったときには苦しいほう、きつい方を選んで、強くたくましく柔道人生を送ってほしい。

――運・不運という部分では苦しい部分が多かったと思います。柔道人生を振り返っていかがですか?

運があったか、なかったかはわからないですが、そのあたりは良い経験ができたなと思います。ロンドンオリンピックの誤審もそうですし、普段では味わえない体験だったと思います。話題にもなりましたし(笑)。それに対して運がなかったというのではなく、いろんな体験ができて良かったなと捉えています。

――これまでに色々な恩師の方がいたと思います。指導者になるにあたり、先輩方からどんなことを学びたいですか?

指導者としてはゼロからのスタートになると思うので、スポンジのようにいろんなことを吸収して、自分にあった指導方法を見つけた上で、さっきも言ったように選手に、あとひと押しというところで、言葉が通じるような指導者になりたい。

――長い間選手を続けて、犠牲にしてきたこともあったかと思います。指導者の道以外でやってみたいことはありますか。

好きで柔道をやっていたので、これまでなにか犠牲にしていたというか我慢してということはない。僕の中では好きなことをただやっていただけです。これからは指導者として勉強しないといけないという決意のほうが強くて。…ほかにやりたいこととかは、ないですね(笑)

――73kg級に転向してから、大野選手や橋本選手と戦った数年間はいかがでしたか。

リオが終わって、階級を変えて減量から開放されて、体型にあった柔道が出来るようになった。凄く楽しかった。試合の結果は66kg級時代のほうが出ていますが、73kg級に変更してから柔道の面白さや奥深さを強く実感するようになりました。階級を変えてからのほうが、柔道が楽しかったですね。

――試合に限らず、柔道人生においての一番の思い出。つらかったこと、楽しかったことを教えてください。

中学・高校と、講道学舎というところで柔道に没頭する生活をしていましたが、そこが一番辛かったですかね。良かったのは、今となってはですが、世界選手権3連覇ですね。

――オリンピックで負けた経験がどのように生きていますか。

自分の中でオリンピックの金メダルをゴールにしていたところがあって、世界選手権は通過点でしかなかった。ですから優勝も嬉しくなかった。オリンピックというものを意識し過ぎ、大きくし過ぎていた。だから、当日、平常心でいられなかった。私が思うには、オリンピックは選手のほとんどが浮足立っている。そういう考え方の部分で、気軽にというわけではないですが、そのときに平常心を保って、流されない選手が金メダルを獲れる。ここは経験した人しかわからないと思います。今後、関わることがあれば、選手を平常心にさせることを意識してアドバイスができればと思います。

――講道学舎が辛かったという話がありましたが、そのときがあったからこそ今の海老沼選手があると思います。今の人生に残っていることは?

講道学舎という厳しい環境にいたからこそ、やりきる力、突き通す力を学ぶことが出来ました。柔道としては勝っても負けても最後まで攻めろという教え。逃げて負けた試合はすごく怒られるけど、負けた試合でも最後まで攻め通す試合は怒られませんでした。そういう指導方針の中で柔道が出来ていて、これが私の柔道の原点。私を形作っているものはこれです。卒業してからもそこは曲げませんでした。

――長い柔道人生で大切にしていたもの、貫いてきたものは?

試合の中で勝ち負けよりも内容にこだわる。最後まで攻め通すこと。その姿勢を貫いて柔道人生全うできたので、良かった。

――古賀稔彦さんが、温かい目で見ていたのが印象的でした。教えてもらったことは?

僕が五輪を目指すきっかけになったのは古賀稔彦先輩ですし、柔道の面白さ、すごさを教えてもらったのも古賀先輩です。講道学舎に入りたかったですし、古賀先輩がいなかったら五輪を夢として目指すこともなかった。やっている技、技術はビデオを見て、見よう見真似でやっていた。自分の柔道は古賀先輩あってこそ。感謝の気持ちでいっぱいです。

――引退について、リオ五輪の後には考えなかった?

リオ五輪で金メダルを取ったら引退しようかなと、漠然と考えてはいました。でも勝てなかった。だから73kg級でもう一度という形でした。引退を決意したのは今回が初めてです。

――あらためて、海老沼選手が考える柔道の面白さとは。

対人競技ということもありますし、私のなかでは「完成形がない」ところが面白いと思っています。この柔道をやれば絶対に勝てるという柔道はない。でもそこを追い求めて、練習して、研究していけるのが柔道の面白さであり、奥深さだと思います。

――昨年12月には全日本選手権。アクシデントで出場がかないませんでした。

そうですね。出場してみたかったなという気持ちはあります。

――これまでの柔道人生、点数をつけるとすれば何点ですか?

オリンピックで金メダルを目指していたので満足はしていないです。…点数にはできないですが…。後悔はないので、50点ぐらいでお願いします(笑)

――今後どういった形で指導を。

まだ全然決まっていないので、ちょっとわからない部分はあるのですが。今までは選手として結果にこだわってきましたが、これからは柔道の奥深さといものも伝えていきたい。そこを体で体現するのではなく、言葉で伝えられればと思っています。

――2度目の五輪に挑む、後輩の大野将平選手について。

僕が言わなくても頑張ると思いますので、特に言うことはありません。でも試合の中で、大野選手や橋本壮市選手、世界チャンピオンと戦えたことは幸せに思います。

――引退するきっかけになったのが講道館杯決勝ということでした。いま考える敗因は?

前半の部分では私のペースで進んでいたと思います。でも後半、組み手で妥協した部分がありました。楽して勝とうと返し技を狙った部分があった。ですので、最後まで強気の姿勢が保てなかったことが負けに繋がったと思っています。ここで勝って国際大会などに選んでもらえれば世界選手権のチャンスもあったと思いますが、大野選手と橋本選手がいる中で、ここで負けてしまったので非常に厳しいなと思いました。

――背負投の印象が強い。海老沼選手にとって背負投とはどういう技でしたか。

背負投を中心に柔道が成り立っていると思っていましたし、意識していました。背負投があるから他の技が掛かる。他の技があるから背負投が掛かる、と思っていました。

――監督を務める、お兄さんに向けてコメントをお願いします。

高校・大学とずっと兄に追いつきたい、追い越したいという一心で柔道選手としてやって来ました。パーク24に入社してからは指導者。二人三脚でやってきたので感謝の気持ちでいっぱい。兄がいたからこそ、今の私があると思っています。

――お兄さんからもコメントを。

海老沼聖:指導者としてではありますが、五輪の舞台に挑戦できたのはなかなかないこと。感謝しています。挑戦できた、その舞台を作ってくれた匡に感謝しています。

――吉田監督に質問です。引退することをわかった上での試合。最後に抱きしめたときの思いを教えて下さい。

吉田:福岡の大会で引退するとは聞いていましたし、ぜひそこで優勝して最後の花道を飾ってもらいたいと思っていました。1週間前には古賀先輩が亡くなった。講道学舎の先輩で、階級も同じ。そこで引退するということで、自分の中では気持ちが入った大会で、ぜひ優勝して引退してもらいたいという気持ちでいっぱいでした。ですので、最後優勝して降りてきたときにはなんとも言えない気持ちで抱きしめた。本当に、ご苦労さまという気持ちです。

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