【書評】「日本柔道最重量級の復活する日」
北京-ロンドン期の総括が白眉、歴史は「書く」ことで作られる
著者:森田景史・田中充
発売日:2020年12月1日
発行:育鵬社 発売:扶桑社
2021年夏の東京五輪で日本柔道界が果たさねばならない「雪辱」にフォーカスするという視点から、日本の最重量級(ソウル以前は無差別と規定)のこれまでをストーリーとしてまとめた今冬の新刊。産経新聞社運動部で報道に携わる二人の記者の共著による。森田景史記者は2008年北京五輪と2012年ロンドン五輪、田中充記者は2016年リオデジャネイロ五輪と来る東京五輪の柔道競技担当だ。
アントン・ヘーシンクの勝利で水を打ったように静まりかえる日本武道館、準決勝で強敵ショータ・チョチョシビリを完封して初の五輪無差別金メダルを日本にもたらした上村春樹、モスクワ五輪ボイコットの失意から4年の時を経てロサンゼルスの地で日の丸を掲げた山下泰裕、あわや金メダルゼロの危機の中で最重量級を制して日本を救った斉藤仁といった既にファンにはおなじみの物語から、井上康生・鈴木桂治・棟田康幸の「三柔士」が築いた黄金時代とその後の凋落、そして原沢久喜や影浦心ら色彩異なる選手が絶対王者テディ・リネールに挑むいまこの瞬間と、日本の最重量級が歩んできた「道」と「人」を丹念にたどった作品である。
これだけの歴史を1冊の中で振り返るということになると、エキサイティングな場面だけで綴ることは難しい。その語り口は時に事実の羅列となり、柔道競技史にあまり馴染みのない読者にとっては処理せねばならない情報量が多めかもしれない(それでも間違いなくわかりやすい本ではあるのだが)。ただし読んでみてあらためて思うのは、ふたたび東京の地で五輪に挑む日本最重量級が背負うものを知るためには、この量自体が必要だということ。宗主国の矜持を一身に背負うその立場の重さ、競技としての先鋭化と武道としての柔道の二面を背負わねばならぬ厳しさ、掴んだ栄光とまみれた屈辱、これはサマリーでは伝わらない。時系列でディティールを辿ることでしか感じることが出来ないものだ。五輪本番を、そしてそこに至るこれからの戦いをより一層入れ込んで楽しむための「足し算」として、一読をお勧めする。
さて、「歴史」というものはいつ、誰が振り返るかによって意味づけも評価も変わってくる。また、単なる事実が「歴史」という物語に昇華されるには一定以上の時間の経過が必要であり、かつ異なる話者によって繰り返し語られ、書かれる必要がある。前述「おなじみの物語」と表現させて頂いたソウル五輪まではこれまで幾多の語り部に繰り返し語られて既に歴史として確定された物語。一方ロンドン五輪から今日までの日本最重量級の来し方はまだまだ現在進行形のナマな「事実」であり、これに評価と意味づけが為されるには最低でもおそらく五輪あと2回分くらいの時間が必要だろう。だから前者は面白いけど既視感のあるストーリー、後者は物語にまで成熟するに至らず「事実の羅列」になりがちということになる。
というわけで、本書の白眉は間違いなく「北京-ロンドン期」。2008年10月、北京五輪最重量級金メダルを手にした石井慧の「強化選手辞退届」提出劇に端を発する日本柔道凋落期の総括である。面白かった。担当は間違いなく森田記者。彼は良い意味で新聞記者らしからぬ艶っぽい、そして熱い原稿を書くひと。本書では一貫して敢えて抑えた筆致に終始しているが(勿体ない!)、この章では観察者としての冷静な態度はそのままに、しかしきちんとおのが主観を持って「評価」の大鉈を振るう彼らしい大胆さを見せてくれている。このロンドン-リオ期はいま現在との連続性の強さに縛られてこれまでどんなメディアも「事実」のレベルでしか伝えられていなかったと言って良いのだが、今回は森田記者がついに一歩大きく踏み込み、その主観の大鉈をもってあのいまだ評価定まり切らぬ暗黒の「篠原時代」をぶった切り。日本代表低迷の因を明らかにするという屋台骨を一本通した上で、これに沿って折々の選手や監督の振る舞いやコメント、試合の内容と結果といった事実を集積し、その各々を的確に評価して意味づけしている。単に外的要因に見えかねないIJFワールドツアーの振興と日本の凋落が「バーター」の因果関係にあったことを、関係者のコメントと結果を積むことで「史実」として断定したあたりは真骨頂。これぞ事実を歴史的文脈の中に位置づけていく作業、つまりは歴史を作るという行為に他ならない。書かれること、語られることで事実は初めて歴史になる。今回この本から「ロンドン-リオ」期は歴史に足を踏み入れたと言っていいと思う。
この手の興奮にあまり興味がない人でも、どう扱っていいのかわからないもやもやした事実を主観評価でぶった切る、この快楽はわかってもらえるだろう。その快楽、実は単に溜飲が下がるというような位相の低いものではなく「意味付けられる」という行為自体に端を発するものである。そしてここで語られる見立て、おおむね違和感はない。上川大樹の2010年世界選手権無差別金メダルを「落日にある日本男子の危機感を削いだ」と位置づけ、日本代表選手の疲弊と若手発掘策の至らなさを「ワールドランキング制度への対応の誤り」と切り、篠原体制の宿痾というべき徹底的な楽観主義を浮かび上がらせ、そしてその因はこの体制以前に日本柔道界が孕んでいたものでもあることと指摘する。どれもほとんどの読者がストンと肚落ちすることと思う。
私事になるが、私が国内メジャー大会の取材に少しづつ顔を出せるようになったのは北京五輪直前の2007年冬ごろ、そして日本代表の取材に参加し始めたのがこの「凋落期」のスタート、2008年冬の代表合宿からであった。北京五輪時の柔道競技取材陣は人材のレベルが異常に高く、特に主要メンバーには怪物級がずらりと揃っていたのだが(いまその面子を考えるだに恐ろしい)、その中から何人かがそのままロンドン五輪担当として残り、この現場にも「怪物級」がいた。その代表格がSさんとNさん、そしてこの森田記者である。経験の少ない自分にもこの人たちが「怪物」であることはものの数分でわかった。勉強量が違う、観察量が違う、思考力が違う、反射神経が違う、なにより矜持が違う。ただ伝えるだけでなく、柔道かくあるべきとの「筋」を持った上で現場に対峙している。メジャーメディア何するものぞの気概でたった1人現場に乗り込んだ私であるが、これは謙虚に勉強させてもらうしかないなとあっという間に首を垂れるしかなく、そしてどうやら彼を見ておけば間違いないなとしばらくは森田記者の「箸の上げ下げ」までを横目で観察し続けることになった次第である。私はノートの取り方にいまも続ける実に小さなマイルールがあるのだが、告白すると、それはこの時期森田記者の「箸の上げ下げ」を後方から盗み見たものである。そのくらい、彼らは圧倒的であった。
だから余計にこの章は面白かった。篠原監督の面白おかしい発言に報道陣が形上沸いて見せる中、隣に立っていた彼は何を考え、どう事態を俯瞰していたのか。煮え切らない上川大樹の立ち振る舞いに、また、負傷を抱え、加齢に蝕まれながら畳に立ってフィティングポーズを解かず「日本の最重量級」の矜持を守ろうとした鈴木桂治の姿に何を見ていたのか。あの暗黒時代の答え合わせが出来たことは幸せであった。
この「北京-ロンドン期」のような読み物としてのメリハリが全体にもう少し欲しかったところではあるが、日本の最重量級に課された使命を理解する入門書としては必要十分だろう。巻末の特別企画、今度はコーチとなって最重量級制覇に挑む鈴木桂治と積年のライバル・棟田康幸による同期対談も豪華。前述の通り、より「入れ込んで」東京五輪を楽しめるであろうこと請け合いである。
評者:古田英毅
著者:森田景史
産経新聞論説委員兼運動部記者
1970年、大阪生まれ。1993年、産経新聞社に入社。大阪本社運動部、社会部などを経て、2009年7月から東京本社運動部。2008年北京、12年ロンドンの五輪2大会で柔道競技を担当。このほか、レスリング、相撲、日本オリンピック委員会(JOC)を担当し、東京五輪は招致活動から取材する。
著者:田中充
産経新聞運動部記者
1978年、京都生まれ。地方紙を経て、2003年、産経新聞社に入社。08年1月から東京本社運動部。16年リオデジャネイロ、21年東京の五輪2大会で柔道競技を担当。このほかプロ野球、米大リーグ、パラリンピック、スポーツ庁などを担当し、東京五輪は招致活動から取材する